#太平記
【賢俊と文観】43頁注17
対立説
伝統的通説としては、北朝・室町幕府の高僧だった三宝院賢俊は、南朝の高僧だった文観房弘真とは深い対立関係にあり、文観から真言宗の要職を奪還した僧だったとされる[5]。たとえば、近世の『続伝統広録』では、文観は妖術に長け荼枳尼天を祀り女人と交わって多数の子を為した邪僧と描かれており[6同書「大僧正賢俊伝」ではその邪僧の文観を駆逐して正しい教えを取り戻した立派な僧が賢俊であると、勧善懲悪的な文脈で対決が物語られる。
また、現存する軍記物語『太平記』の12巻および13巻は建武政権批判が色濃く、護良親王や千種忠顕ら後醍醐天皇側の人物が誹謗を受けており、特に文観は「邪魔外道」の僧とされ、後世の文観像に重大な影響を与えた。『太平記』研究者の兵藤裕己は、今川了俊『難太平記』を引き、慧鎮房円観らが作成した『原太平記』(『太平記』の原型だが散逸)全30余巻に対し、玄恵ら足利政権に近い人物による改変が行われたのではないか、と推測している。さらに、兵藤は、上記の賢俊が文観派を積極的に排除したとする伝統的通説に則り、文観批判が展開される『太平記』の前半部(1巻から21巻まで)が完成したとみられる時期と、賢俊が権勢を振るった時期が重なることを指摘している。
今から湊川の戦い読むんだけど、歳のせいかどうしても判官贔屓になってしまう。
新田義貞に楠正成は落胆していたとか、馬が合わなかったとか言われているけど、単に兵力差です。仕方ありません。こればかりはトップが悪いんですよ。だから武家は足利に味方するんですよ。
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