協調説
伝統的通説に対し、仏教美術研究者の内田啓一は、賢俊と文観は実際にはそこまで大きな対立関係にはなかったのではないか、と主張した。
一つ目に、南朝側の資料であるが『瑜伽伝灯鈔』(正平20年/貞治4年(1365年))によれば、賢俊は文観から付法を受けている(師の一人を文観としている)ので[9]、文観から弟子の賢俊に座主が移るのは特段不自然なことではない[3]。
二つ目に、賢俊が文観に替わって醍醐寺座主になったのは延元元年/建武3年(1336年)6月で、尊氏が京都を占拠する8月の2か月前のことである[4]。つまり、文観から賢俊への交代は後醍醐天皇の治世下でなされており、確かに尊氏と賢俊は密接な関係にあったとはいえ、「尊氏の後援を受けた賢俊が文観を醍醐寺から追い出した」という認識は正確ではない[4]。
三つ目に、南北朝の内乱勃発後、南朝側の醍醐寺座主に補任されたとみられる文観は[10]、延元3年/暦応元年(1338年)ごろ、『弘法大師二十五箇条御遺告』という醍醐寺の重宝中の重宝(後世に偽書と判明)を吉野に持ち出したことがあり、北朝側の醍醐寺座主の賢俊は止めようとすればできたはずだが、特に両者で争った形跡はない。
文観については内田啓一氏の本は避けて通れないのか…
内田は「想像ではあるが」としつつも、賢俊と文観は国家的には敵対の立場にあったが、醍醐寺内部では取り立てて両者は対立しておらず、醍醐寺は賢俊と文観という両朝への代表を立てて、南北両朝の争いの趨勢がどうなっても良いように、巧妙に時流への対応をしていたのではないか、と推測している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/賢俊