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中国語の授業で第二回まで前後にすわっていた男女が第三回でよこならびにすわりだしたことを帰宅後に報告。
わたし「恋をしとるんだよ! 教室で恋をしとるんだよ! 勉強に集中するためにわざわざつくった場所で! 恋をしとるんだよ! ずるい!」
家人(小)「いいじゃん。恋は回避できないし、制御できない」
「な、なにをJ-POPの歌詞みたいにいうとるんだよ!」
「ずるいっていうこどもは、自分もやりたいんだよ」
「そうだよ! やりたいよ!」

母親に注意されたこどもが「媽媽對不起,我不喜歡那個時候的自己」といっている。反省ということがなかなかよく表現できている。

わたしのつかっている初級中国語教科書をみて1.5リンガル子いわく「そりじたってなんなの」
わたし「zhi, chi, shi, riはしたそってるでしょ」
「そってはないとおもう」
「いやいや、したがちょっとお椀がたになってるでしょ。zhi, chi, shi, riやってみてよ」
「まあ、いわれてみれば」
またüに対する「uのくちでi」という説明についていわく「このおとってさ~、このへん(くちさき)がふるえるのが最大の特徴だとおもう。まあ説明するのはむずかしいけどね」
レベチ~

わたし「あたらしいクラスは1くみかな? 2くみかな? それともZぐみかな?」
始業式女子「いままで数字でやってきたのにいきなりアルファベットにはしないだろ」
「いや、ここにきてあえてのZぐみ」
「学校のシステムに『あえて』とかないとおもう」
本質~

けさの夢。日本人両親のもとマレーシアでうまれそだった杏子(きょうこ)が日本の高校に進学し、クラスメートになまえを「あんこ」とまちがわれるが、そもそも日本のあずき餡のことをしらなかったことがクラス内に衝撃をあたえ、あだなが「あんこ」になってしまう。その後なれない日本での生活とあずき餡の味に苦戦しながら、「あんこ」としてのあたらしいアイデンティティを模索していくという設定。(自由に漫画化、小説化してください)

家人(小)「博士になって得したことはありますか」
わたし「う~ん、ないね」
「どういうことがあるとうれしいですか」
「飛行機にのるときさ~、ファーストクラスのお客さまとか、ちいさいおこさまをおつれのお客さまとか、はやくのれるじゃん。あのときに博士のお客さまもさきにのせてほしい」
「そうはならないでしょ」
「いやいや、『あ~博士なんですか、それならおさきにどうぞ』ってなるでしょ」
「なんの専門の博士かによるでしょ」
「おや?」
「理系の博士ならなるかもしれないけど」
「おいおい、露骨な文系差別はやめたまえよ」

わたし「숙제(宿題)! 숙제!」
こども「それは母音のないpがはいってますか」
「おしいね~。母音のないkがはいってます」
「숙제」
音韻を確認してから実践するところがいいね~

家人(小)の『はなかっぱ』(ヤドカリになってとじこもりいやなことを回避できるという回)批評「なんでもヤドカリになるなよ。ぜんぶのことがにがてになるだろ。そういうやつはキモいんだよ」
賛同するけど、「キモい」にはそういう用法もあるんですか。

わたし「どうせなら大雪特別警報でたら学校やすみになるのにね」
こども「でないほうがいいよ」
「おとなみたいなこといわないでよ」
「あなた気もちがこどもなんだよ」
「あなたがおとなみたいなこというからバランスとろうとしてるんだよ」
「おもってないことはいわなくていいでしょ」
ぐぬぬ……

説話と小説のちがいはなにかうっすらかんがえていて、小説にあって説話にないのは「生活」かもとおもったが、やはり小説は都市的といえるのかもしれない。極論すれば農村に「小説的生活」はない。そういう意味で、都市をえがく賦のなかに小説が胚胎したとしたらうなずけるのかもしれない。

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カーディガンを着用したら、家人(小)に「准教授」といわれた。偏見だ!

後漢から魏晉にかけて、賦が潜在的に小説(novel)の機能を獲得していく形勢、みたいなテーマでかけないかしらん。張衡から陸機・潘岳あたりまでで。(すぐには無理)

家人(小)「天球はなんですか」
わたし「天球は、なんか空の星とかが、どこにあるか、というかどこにみえるか?みたいなのを球であらわしたやつ」
「その説明はうまいとおもいますか」
「おもってないよ。ごめんおとうさん人文だから」
「大丈夫です。授業でならったから」
(ならなぜきいたのか……)

家人(小)による「レモンすぎるレモン」
〽レモンのレモンみさえ~
レモンのレモンみさえ~
そのレモンをレモンしてた~レモンとともに~

ことしの虚字

両詩には、近体でありながら同字を複数回使用するという共通点もあるが、それが李商隠詩のなかでどの程度特殊なのかはわからない。

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李商隠《夜雨寄北》の「何當共剪西窗燭,卻話巴山夜雨時」では、詩の時間が俯瞰的に解体されているようにもおもえるが、《錦瑟》の「此情可待成追憶,只是當時已惘然」にもそれはあるのかもしれないと、『李商隠詩選』の解釈をみてかんがえた。

家人(小)「コロナビールはなんでコロナなの」
わたし「新型コロナウイルスとは関係ないよ。コロナは王冠っていう意味なんだよ」
「しってる」
「しってるんかい。コロナウイルスはスパイクたんぱく質っていうとびでてる部分が王冠のまわりのとびでてる部分ににてるからコロナっていう名まえがついたんだよ」
「しってる」
「そこまでしってるんかい。そこまでしっててなにをきこうとした」
「はやくおさまるといいね」
同意しかないね!

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