後漢から魏晉にかけて、賦が潜在的に小説(novel)の機能を獲得していく形勢、みたいなテーマでかけないかしらん。張衡から陸機・潘岳あたりまでで。(すぐには無理)
李商隠《夜雨寄北》の「何當共剪西窗燭,卻話巴山夜雨時」では、詩の時間が俯瞰的に解体されているようにもおもえるが、《錦瑟》の「此情可待成追憶,只是當時已惘然」にもそれはあるのかもしれないと、『李商隠詩選』の解釈をみてかんがえた。
#夢 東大の大学院に入学し、どうみても熊野寮な寮に入寮完了。二人部屋のルームメイトは学部から東大。新M1寮生たちが大学院の英語の授業についてはなしている(現実にはないとおもうけれども)。わたしが「大学院でも英語やるんですか。学部四年間なにやってたんですか」といったら、ルームメイトが激怒。わたしは(ふつうにプライドのたかい東大生やん……)とドンびき。そのあとくれがたになぜか四階にあるサレオツな食堂にいくと、「まかないなおし」というメニューがあり、ほかの客が「意味がわからない」といっている。出雲地方ではふつうにつかうことばという設定(現実にはそんなことばはない)で、わたしはそれが方言だったことをしった衝撃をつつみかくしつつ「出雲地方ではそういうらしいですよ」と、出身をあかさずに博識ぶる。