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けさの夢。日本人両親のもとマレーシアでうまれそだった杏子(きょうこ)が日本の高校に進学し、クラスメートになまえを「あんこ」とまちがわれるが、そもそも日本のあずき餡のことをしらなかったことがクラス内に衝撃をあたえ、あだなが「あんこ」になってしまう。その後なれない日本での生活とあずき餡の味に苦戦しながら、「あんこ」としてのあたらしいアイデンティティを模索していくという設定。(自由に漫画化、小説化してください)

家人(小)「博士になって得したことはありますか」
わたし「う~ん、ないね」
「どういうことがあるとうれしいですか」
「飛行機にのるときさ~、ファーストクラスのお客さまとか、ちいさいおこさまをおつれのお客さまとか、はやくのれるじゃん。あのときに博士のお客さまもさきにのせてほしい」
「そうはならないでしょ」
「いやいや、『あ~博士なんですか、それならおさきにどうぞ』ってなるでしょ」
「なんの専門の博士かによるでしょ」
「おや?」
「理系の博士ならなるかもしれないけど」
「おいおい、露骨な文系差別はやめたまえよ」

わたし「숙제(宿題)! 숙제!」
こども「それは母音のないpがはいってますか」
「おしいね~。母音のないkがはいってます」
「숙제」
音韻を確認してから実践するところがいいね~

家人(小)の『はなかっぱ』(ヤドカリになってとじこもりいやなことを回避できるという回)批評「なんでもヤドカリになるなよ。ぜんぶのことがにがてになるだろ。そういうやつはキモいんだよ」
賛同するけど、「キモい」にはそういう用法もあるんですか。

わたし「どうせなら大雪特別警報でたら学校やすみになるのにね」
こども「でないほうがいいよ」
「おとなみたいなこといわないでよ」
「あなた気もちがこどもなんだよ」
「あなたがおとなみたいなこというからバランスとろうとしてるんだよ」
「おもってないことはいわなくていいでしょ」
ぐぬぬ……

説話と小説のちがいはなにかうっすらかんがえていて、小説にあって説話にないのは「生活」かもとおもったが、やはり小説は都市的といえるのかもしれない。極論すれば農村に「小説的生活」はない。そういう意味で、都市をえがく賦のなかに小説が胚胎したとしたらうなずけるのかもしれない。

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カーディガンを着用したら、家人(小)に「准教授」といわれた。偏見だ!

後漢から魏晉にかけて、賦が潜在的に小説(novel)の機能を獲得していく形勢、みたいなテーマでかけないかしらん。張衡から陸機・潘岳あたりまでで。(すぐには無理)

家人(小)「天球はなんですか」
わたし「天球は、なんか空の星とかが、どこにあるか、というかどこにみえるか?みたいなのを球であらわしたやつ」
「その説明はうまいとおもいますか」
「おもってないよ。ごめんおとうさん人文だから」
「大丈夫です。授業でならったから」
(ならなぜきいたのか……)

家人(小)による「レモンすぎるレモン」
〽レモンのレモンみさえ~
レモンのレモンみさえ~
そのレモンをレモンしてた~レモンとともに~

ことしの虚字

両詩には、近体でありながら同字を複数回使用するという共通点もあるが、それが李商隠詩のなかでどの程度特殊なのかはわからない。

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李商隠《夜雨寄北》の「何當共剪西窗燭,卻話巴山夜雨時」では、詩の時間が俯瞰的に解体されているようにもおもえるが、《錦瑟》の「此情可待成追憶,只是當時已惘然」にもそれはあるのかもしれないと、『李商隠詩選』の解釈をみてかんがえた。

家人(小)「コロナビールはなんでコロナなの」
わたし「新型コロナウイルスとは関係ないよ。コロナは王冠っていう意味なんだよ」
「しってる」
「しってるんかい。コロナウイルスはスパイクたんぱく質っていうとびでてる部分が王冠のまわりのとびでてる部分ににてるからコロナっていう名まえがついたんだよ」
「しってる」
「そこまでしってるんかい。そこまでしっててなにをきこうとした」
「はやくおさまるといいね」
同意しかないね!

家人(小)「わらうことはからだにいい」
わたし「そうらしいね。だからわたしは家族をたくさんわらわせようとしています」
「にがわらいにしかならない」
「……」
「にがわらいっていうのは、わらってあげないとかわいそうだとあわれんで……」
「いやそれはわかってる」

しめきりは移動しないのだから、「しめきりにおわれる」は厳密にはただしくない。おわれているように感じるのは、人間のほうがしめきりを背にして高速で後退しているからなのだ。

東大の大学院に入学し、どうみても熊野寮な寮に入寮完了。二人部屋のルームメイトは学部から東大。新M1寮生たちが大学院の英語の授業についてはなしている(現実にはないとおもうけれども)。わたしが「大学院でも英語やるんですか。学部四年間なにやってたんですか」といったら、ルームメイトが激怒。わたしは(ふつうにプライドのたかい東大生やん……)とドンびき。そのあとくれがたになぜか四階にあるサレオツな食堂にいくと、「まかないなおし」というメニューがあり、ほかの客が「意味がわからない」といっている。出雲地方ではふつうにつかうことばという設定(現実にはそんなことばはない)で、わたしはそれが方言だったことをしった衝撃をつつみかくしつつ「出雲地方ではそういうらしいですよ」と、出身をあかさずに博識ぶる。

家人(小)に「とりな歌」(※)を紹介し「いろは歌はネガティブだよね。これからはとりな歌にしてみる?」とすすめてみたが、「いろは歌になれてるからおぼえにくい」とか「ネガティブさが逆にうつくしい」とか、ぜんぜんなびかない。当時も結局そうだったんだろうよ!

※1903年につくられたカナのパングラム。以下の重複しない48字(「ん」をふくむ)による七五調の和歌。
とりなくこゑす ゆめさませ みよあけわたる ひんかしを そらいろはえて おきつへに ほふねむれゐぬ もやのうち

《欲化爲貓》

燭盡猶話 星滅窗外
空然奔街 顛則誰喚
塋域唯曠 我舍其旁
天仍微陰 幻裏常暖

(*)欲化爲貓 即人之懷
 吾心忡忡 何夜敢去
 欲化爲貓 詞必凋謝
 使有爪創 聊可存乎

閉目髣髴 隱藏之窟
實似畫中 蓬壺濱涯
巷無四時 埃塵纏身
此晏既虛 絶而棄之

(*)2回くりかえし

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