やっぱり天性の嘘つきだけのことはありますよね。あれであそこまで上り詰めて生きてきたんだろうから、そこら辺の自民党のボンボンとは鍛え方が違う(奴らも相当だけど)。
『女帝』、以前に一度読みましたけど、本当に酷い嘘つきだけど、生きることに必死でパワフルな彼女に対する感動のようなものも感じたんですよね。
例えば、小池百合子を主人公にして、悪人がのし上がっていく映画とか作ったら、案外、面白いかも知れません。
選挙に負けて欲しいですね。そして悪事が蓮舫に暴かれて、朴 槿恵のように牢屋に入って欲しい。
最後まで反省はしない方が、リアリズムがある気がしますね。
@zpitschi 最近悪いことしても裁かれないのが流行ってますから、ぜひ逮捕されて報いを受けて欲しいですね。反省はしなくて構いません!!泣
むしろ醜いまま惨めな生涯を終えて欲しいです。
@zpitschi ゆりこの晩年がどうなるか、楽しみになってきました。
それこそが因果応報ですよね、実は…。
@zpitschi 因果応報、発動すると良いですが!!世の中逃げ切るひとも多そうなので。(外から見ると幸せかどうかなんてわからないですけどね)
@zpitschi なるほど、逃げ切っているように見えても内実は不幸だと・・。案外ほんとうのしあわせなど知らないまま死ぬのはしあわせかもしれないですね。知らないんだから悔しくもないでしょう。ああ悔しい。笑
ほんの少し気付きかけちゃう話ですけど、私は『愛を読む人』って、そう言う話のような気がして。
そして、私はそれに自分の母親を重ねてしまいます。
愛情をどんなに注いでも全部無効化してしまう人というのは、実在しますよね。そうすればそれを自分が傷つけていることも、持てないことも、知る必要がないから、苦痛も感じずに済む。
@zpitschi 「愛を読む人」はなんとなく読みそびれたのですが、そういう感じのお話なのですね。そうなると気がつかない方がしあわせということになりますね。わたしは気がつく苦しみを選びたい方の人間ですが、気がつかないしあわせを選びたい人も多いですよね。それがゆりことゆりこ支持者だったり?うん、わたしは気がつかないことを良しとする人たちが嫌いです!つまりゆりことゆりこ支持者が嫌い!
あ、私は本は読んでなくて(本のタイトルは『朗読者』でしたっけ?)、映画を観ただけですが、映画の方は何回も繰り返し観てます。
あの手の人は、助けようとしても本人がそれを拒絶して、本人は何も感じないけれど、助けようとする人間だけが、本人が感じるべきだった悲しみと絶望に打ちのめされますね。
依存症の支援をしようとしたり、愛して助けようとしする人たちは、皆、本人が自分では引き受けられない悲しみを抱えさせられることになります。
@zpitschi 映画の方ですね。本も映画も気になってましたが結局スルーしてしまったやつです・・助けたいのに本人はケロっとして助けられないのはしんどいですね。わたしは誰かを助けようとかはないのですが、わたしの母親もケロっとしあわせらしく(何も悩んでないそうです)人生について何十年も悩んで苦しんでいるのがわたしだけだったのでなんかもう母親とわかりあうのは諦めました!!
途中からまた横から失礼します。
『愛を読むひと』は映画で、原作小説は『朗読者』(B・シュリンク)が邦題です。原作と映画化作品とタイトルを変えているのは、珍しいかもしれませんが、どちらの話をしているのか分かり易いとも言えます。
実は映画はちゃんと見ていない(し小説も原語で、訳は未確認)のですが、先ほどぴっちさんのトゥートを読んで「なるほど、そういう解釈ができるのか!」と感動しているところです。正直、あの話の終わり方は納得できなくて不満だったので。🙏
@adachika192 @zpitschi あら、納得できない終わり方気になりますね。小説の方を読んでみようかしら。小説読んでみたいうちに映画化されて、なんとなくスルーしてしまってきたので・・
私も本も読んでみたいと思って持っているんですけど、まだ読んでいません。
映画の方は、あの監督の映画はどれも大好きで、繰り返し観ています。苦しいのですけど。
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彼女は「否認の人」なんですよね。
私は『愛を読む人』という映画のタイトルを長らく「愛を体験する(生きる)ことができなくて、読む(物語世界)でだけ享受する人」だと思い込んでいて、つまりそれは彼女のことだとばかり思っていたのですが、原作のタイトルが『朗読者』だと知って、「“愛を読む人”は男の方だったのか?!」と驚きました。最初の思い込みが強かったので、今でも混乱していて、頭の中でよく考えてからでないと間違えます。
彼女は私にとっては私の母親です。
私は今でもどこかで、彼女のような人(つまり私の母ような人)の魂の救済をしたくて仕事をしているんじゃないかと思ったりします。
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小池百合子がもし母親だったら、きっと娘は(または『愛を読む人』の中では男性なので息子でもいいけど)、娘の方は人間の心を持っていたとしたら、どれほど辛いだろうと思います。つまり心を通わすことができない、「気づくこと」を最後まで拒絶する母親のことが悲しくて…という意味ですが…。
あ、ついでに思い出しましたけど、しばらく前に話題になっていたフェリーニの『道』。
ジェルソミーナが流す涙は、あの殺されてしまう青年に対しても、ザンパノに対しても、愛ゆえの涙ですよね。自分が迫害されていることに対する涙もあるけれど、それ以上に彼女はザンパノを愛しているから悲しんでいる。
ザンパノはそれが分からない。彼には愛がわからない。分かりたいとも思っていない。そんなものに価値を見出せない男です。
でも、ラストシーンの彼の慟哭は、愚かな自分が失ってしまったものへの愛に気づいたことによるものです。気づいた時にはもう既に時遅しで、二度と取り返しがつかない…そのことに慟哭する。
つまり、ザンパノは「(自らの内の愛に)気づく人」です。
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だから、あのラストシーンに皆共感…感動する。
人を愛することを知っているなら、誰にもある程度は経験があることだからです。
でも、あのシーンのザンパノの胸を掻きむしるような悲しみを上記のような「否認の人」は理解できません。そんな女がいたなと思うだけで、それは交換可能な存在なので、また別の若い子を買ってくれば良いだけです。
あのシーンは、ジェルソミーナはザンパノにとって唯一無二の存在であったことを彼が気がついてしまったことを描いています。
彼は自分の無知から、自分が愛した取り替え不能な世界に1人しかいないジェルソミーナを失ってしまったのです。
何ものにも代え難い、一番大切な存在に、もう二度と会うことができない。贖罪することができないことに気づいたシーンです。
それが精神分析で一番大切だとされている「喪失」の体験です。
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あ、あと、『愛を読む人』のハンナは、以前にここで話題になりましたが、ロマであったかどうかはともかく、まぁ文盲で、おそらくは何らかの形で過酷な幼少期を送っており、その傷つきの中でなんとか自分の心を守って生きてきた人という設定ですよね。
だから、彼女のあの性格も仕方がなかった面がある。傷つきが深すぎたんだと思います。
または自らの気持ちを感じて誰かを愛するような人としての人格形成をするにはあまりに幼少期の環境が過酷だったんじゃないかと。
それは、うちの母親にも、小池百合子にも、言えることだろうと思います。
『女帝』には幼少期のことなどはほとんど描かれていませんでしたが。
えーと少なくとも原作の方では、ハンナがロマという設定は、なかったと思います…
それに、少なくとも小説がベストセラーになった頃は、彼女はただの文盲ではなくディスレクシア(読字障害?)という解釈が一般的だったと記憶しています(だから後半の変化は説得力に欠けると感じました)。
映画は、公開当時ドイツのメディアが高校生のミヒャエルを演じたドイツ人俳優をめっちゃ持ち上げていたのが不快だったのと、レイフ・ファインズ があんな風に裏切られるのを見なければならないのか… などわだかまりがあって、観られていません。観るかな…
@zpitschi 女帝、わたしも読みました・・・ゆりこ主人公の映画、おもしろそうですね!!最後は酷い目にあってほしいような気もしますが、いま生きてる人に願うのは恐ろしい話ですね。