リベラル(≒自由民主主義者)とソーシャリスト(≒社会民主主義者)の違いじゃないですかねぇ…
私は後者のつもりなんですが、アメリカ的なリベラリズムには西洋近代思想を普遍的なものと勘違いした楽観的なものの見方を感じます。

From:
fedibird.com/@zpitschi/1115709 [参照]

へぇ。

私は自分はその区分で言えば前者のような気がしていた(西洋近代思想を普遍的なもの思ってた)気がするんですけど、違うってことなのかなぁ。

思ってみたこともない視点なので、全然理解できてないですけど、新しい視点をありがとうございます。

楽観的というのは、非西洋近代(≒非白人)の視点から見ると失礼だったりする(ので、西洋近代人の楽観的な想像のとおりには世界は動かない)、ということです。

私はやはりリベラリストかも知れませんが、本来の意味でリベラリストであれば、今の欧米人のような態度はあり得ないんじゃないかと考えています。

さっきも書いたけど、個人であれ、民族であれ、何であれ、自分の善意や正義感から発したものであっても、人は他者を思う通りに改変できるわけがないから。

それは「してはいけない」ことでもあるとは思うけど、どちらかというと私の感覚では「出来る訳がない」という感じですね。

リベラリズムは独立した主体としての個人を前提としている面が強いので、文化的背景の異なる社会への想像力は欠けてると思ってます…

言ってることは分かるけど、私は独立した主体としての個人で構成された社会が良いな。笑

独立した主体というのは…独立というよりは分離という言葉を使いたいですけど。

あと、私はそれを、別にそれは経済的に自立しているとか、そういう外側の話ではなく、心理的な意味で使ってますけど。

家族主義的な日本(おそらくは他のアジアの国も)の社会にはウンザリしているので。

そしてうちの両親は左翼であったにも関わらず、とても家族主義的な人たちで、私としてはそれでうんと嫌な目に遭ったと思っているので、アレは勘弁してほしい。

社会主義(共産主義)と彼らのような家族主義が相性がいいのは分かるけど。

「親は親。子どもは子ども」とちゃんと個人主義が確立していないことで起きる問題について悩み続けてきた結果、精神分析に辿り着いた者として。

@zpitschi 人の思考というのは何もないところから始まることは不可能ですよね?誰であれ、自分が育ってきた環境とか、もっと言うと自分が使う言語の制約を受けてしか、思考できないわけで。西洋近代だって特殊な枠の中に閉じ込められているのに、そこは自省しないで、自分たち以外の人たちだけが何か狭い檻の中での思考しかできないかのように考えるのは(植民地主義の正当化がその最たるものでしたが)、傲慢だと思うんですよね。

私の感覚だと、その「植民地主義」はむしろ借り物の、ファッションのようなものであることに問題があるのであって、もっと自分たちの内面の家族主義的なものと皆んなが向き合わない限りは、少なくとも日本の場合はこれまで繰り返してきたような全体主義への道に向かわざるをえないという気がしているんです。

借り物だったり、押し付けられて力に従うようなものであっては、そもそもそれは本来的な意味でのリベラリズムではないですよね。

そういう意味です。

だから、日本の家族主義を大切にするのがいいとは全く思ってません。ただ、上からそれを無理やり変えようとしても変わらないという認識はおそらく同じですが。

個人主義の筈のアメリカが、いまとても全体主義的に、イスラエル批判を弾圧してますね…

ですから、もちろんさまざまなイデオロギーも哲学も大切だとは思うけど、そんなことよりも、結局、人間の心の奥底に染みついたものの方がよほど強いと私は思っています。

そういう、各人固有の事情を考慮せず、誰でも同じ条件下なら同じ行動をする(できる)かのように夢想しているのがリベラリズムだと、私は思ってます…

リベラリストにはそういう人が多いかもしれないけれど、それはリベラリズム(言葉の使い方を私はよく知らないので合ってるか自信がありませんが、ここでのやり取りの文脈の中での意味として)に問題があるというのとは別だと、私は思います。

本来的には、そのような他者への押し付けは、個人主義にもリベラリズムにも、反すると感じます。

しかし、アジアにはアジアの事情がある(それは事実)だから、リベラリズムではなく、アジアの伝統に従った国づくりをすれば良いと言われたら、現実を無視してことを運ぶのは無理なのはわかるけれど、目指す方向性も個人主義の否定になるのなら)私はそれは受け入れられません。

それが、女性の自立や、子どもの人権…ひいては基本的人権というものはアジアには馴染まないというのなら絶対に嫌です。

自由主義を標榜するアメリカで、黒人差別や東アジア系差別が常態だったりしますが…
差別を良しとしない思想イコール自由主義、ではないですよね?それとこれとは話が別と思います。

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同じですよ。

それは、日本だろうがアメリカだろうがお題目とやってることの乖離の話で、それなら「リベラル思想が無効」なのと同列で、「差別がいけない」という思想も夢見がちな理想論って話になるじゃないですか。

できてない現実があるのと、その理論がお花畑であるということとは関係ないです。

百歩譲ってお花畑な理想だったとしても、だから掲げること自体が意味がないというのとは違う。

そこに葛藤があり乖離があるからダメってのは、その乖離をいきなり無くすって言う理想論と同じくらい、非現実的で害があります。

えぇと、私が言ってるのは、差別に反対してるのは自由主義だけではないということです。

もしかして、“社会”と付くだけで旧ソ連ブロックの印象を持たれてないでしょうか…
私が言ってるのは、単純化してしまうと、(米国の民主主義に対する)欧州の民主主義です。

そんな話してないですよ。

さっきも書いたように私は祖が共産党員で、そこら辺は散々教えられたし、少なくともそういう意味では、私は彼らの言っていることを信用できるしています。

アカを警戒するような心性は微塵もありません。笑

ただ、人間の心について、私が知っていることをあなたに説明しても、どうにも言葉が届かない感じなので、これ以上説明しても無理な気はしてきています。

リベラリズムという言葉で表現されてることが、私が学んだリベラリズムとは異なるだけと思います。おそらくその言葉でない表現であれば似たことを仰ってるんじゃないかな、と。

少なくとも、個人主義とセットでおっしゃっていたので、私はそれはとてもとても大切だと思っているので(日本などのアジア的な家族主義との対比の上で)反論しました。

私が個人主義に批判的なのは、西洋近代思想を批判する現代思想の影響を受けているからですが、最近ガザのことやLGBTQのことで名前を聞かれたことがあるかもしれないジュディス・バトラーに関する以下にちらっと書かれていることに通じますので、ご紹介させて下さい(私自身はこのテーマを専門とはしていなかったので、うまく説明できていないので…):

ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B > ジェンダー・トラブル

huffingtonpost.jp/amp/entry/ju

私が言っているのは、私の中にはそれらの核のところに個人主義とリベラリズムがあるということです。

自分がいて、自分とは違う他者がいて、そのどちらも同じような存在であるという認識は、人間の精神発達上ものすごく大事なもので、その理解というハードルを超えられないで大人をやっている人は(分かったふりをしているけれど)皆んなが思っているよりもとても多いです。

差別主義者は、そのような他者の存在を許せないので、人間関係を上下で見ます。そしてもし自分と同じ立場の人間がいるなら、ホモソーシャルな、自他の未分化な、お団子みたいにくっついた関係の中でその不快感を取り除く努力をします。要は幼稚で自他未分化な心の状態の人は差別に繋がりやすい。

私の目から見ると、それらはすべて繋がっている問題なんです。個人主義もリベラリズムも民主主義も、その発達段階を越えられない人には豚に真珠になりますが、それはいわゆる学力やIQ的な能力とは関係ないと思います。

そして、10歳、それでは私はもうそんなところはとうにクリアしてるよって話でもなくて、人間って、そこら辺は行ったり来たり、しているので、互いに揉み合いながら、なんとなく全体で維持していくしかないんだと私は思っています。

独立(分離?)したデカルト的個人と異なる形の“個人”というものがある、ということへの想像力が、リベラリズムでは欠けているというのが、私が言おうとしてることです。

なるほど。

それは私に言わせると「無意識」が一番近いですかね。

しかし、いずれにしても、だから何も変わらないとは思っておらず、要は精神発達の問題なので、それは変化しうる(但し外国が上から教えてすぐ変わるというのは無理がある」。

それに、その西洋の国の人たち自身が全然できてなかったというのは、トランピアンとか見れば明らかでしたし、今となってはバイデンさえアレです。

しかしそれだからと言って個人主義など意味がないとは私は思っていませんと言ってます。

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