私は最初から嫌いでしたね、彼女。
とても万能的で躁的で煩い感じがして。
周囲には彼女の漫画を楽しんでいる人も多かったから、邪魔はしないように適当に合わせてたけど。
基本的に彼女は、最初との夫との間で起きていたことをちゃんと振り返ることもせず、周囲まで共犯者として美談に仕立て上げてしまったので、回復していないと思います。不幸な生い立ちだったことは気の毒だけど、それもみんな面白おかしい話として処理してしまっている。
@zpitschi
はい、刺さります…。(もちろん有難いほうの意味で。😅)
結局、消費されてナンボって考えかたで面白おかしくエンタメにしてた作者と、いくら消費しても自分の身の周りは脅かされない場所から消費してた読者(含自分)との、完全に共犯ですよね。一見既存の価値観にNOを突きつけてるように見えて、本当の意味での変革や革命や救済には全くなってなかった。当時の自分の不明を思います。
だから清水晶子氏が書かれてた感じ、少し分かる気がするんですね。(まあ清水氏はそんなに読み込んだわけではないだろうし、自分と同じだなどとはとても言えませんが。😅)
仰る通り、結局彼女自身の問題は解決されてないままだし、もうこれはずっとこのままなんでしょうね。
彼女が今みたいなことになってしまう要素は実は最初から内包されてたんだってことが今なら少しは分かりますが、ほんとのほんとの正直なことをいうと、こんなにまでなってしまってもまだそれを認めたくない自分もいるんですよね。恥ずかしながら。
まあ、葛藤は一生していくものだと思ってるので、そのつもりではいるのですが。
@zpitschi
漫画家として自分が生き残っていくためにはまだ誰もやったことのないことをするしかない、ていう計算は確実にあったと思うんですね。だからエンタメ化の手法としてはおそらく当時としては新しかったし、実際フォロワーも出てきたし、なんならひとつのジャンルになったとも言えるかも知れない。
でも、エンタメ化ってのは、それによる啓蒙の効果がゼロとは言わないけれども、それよりも、本当の問題を覆い隠す効果のほうが100倍でかくなる可能性がある。だからよっぽどバランスをとらないといけないんだな、てことが自分に分かってくるのはずいぶん後の話…
いや。娯楽作品にすること自体を否定するつもりはないんですけど、もしそれが本当に彼女の体験した真実を(面白おかしくしても良いけど)表現したものだったら、むしろ素晴らしかったと思います(散々笑わせて貰って、でも大切な問題の本質を伝えてくれる芸術作品はたくさんありますよね。良い落語で泣き笑いしたあとの心の中の何とも言えない満ち足りた感じは私は大好きです)。
しかし彼女の作品は、「否認」で出来てるんですよ。真実を躁的な笑いで跳ね飛ばすような心の動きです。そしてそれはアルコール依存症などの倒錯的な問題が起きている時に、本人もそうだけど、いわゆるイネブラー(彼女はイネイブラーですよね)も使う自分の傷つきを無いことにする方法です。
あれがウケたのはおそらく当時から日本全体が否認の文化で何とか気分を保っていたからでしょう。その延長上にある今のひろゆきだと私は思っています。どんな悲惨な話も悪行もヘラヘラ笑って痛みを忘れようとする方法です。
私がこういうことに敏感なのは、おそらく実家が半分そんなところがあったからだと思います。両親の躁的防衛に辟易していたし、母親は半分アル中みたいだったし、叔父叔母がアルコールの問題で亡くなっています。だから悲しいことに嗅覚が効くんです。
すみません、ぼんくんち、知らないんだけど、そう言う違和感の残るものだったんですね。
まぁ散々書いといてアレなんですけど、実際は例えば、落語でも「えええーっ!それでめでたしめでたし?」みたいなのはたくさんあるし、志ん生なんて“って言うか結構の数の落語家が)アル中だったのかなぁと思ったりもするんですけどね。
赤塚不二夫だって、子供の頃、ア太郎とかバカボンとか大好きでしたが、アレもきっと飲んで酔っ払って書いてたのかなぁとか思うし。
ふふふ、
ここまでの議論をみんなひっくり返すようですみません。
永遠の葛藤ですね。(結局、そうなるんか)