「現代美術家」の村上隆が川口のクルド人に対する「紛う事なき」ヘイト・スピーチを行っているとのこと。

 村上隆は1963年生、私にとっては「現代美術」における東浩紀のようなもので、元来全く評価できない男であり、ここでも繰り返し批判している日本の男中心のサブカルチャーの「反PC」の一翼を担っていると見做していたので、その意味では驚きはない。

 80年代消費社会+ポストモダニズムの観点から言えば、村上隆は1993年に「美術における『意味の無意味の意味』をめぐって」なるものによって、「芸大日本画科で初めての博士号取得者となった」らしいが、これは「いかにも」である。

 これは芸大日本画家の先生達には訳の分からぬ「現代思想ジャーゴン」をそれこそ「無意味」に並べ立てただけだろう。

 しかし、村上隆は元来「論外」なのだが、サブカルだけでなく、日本の「アート」一般の低迷は眼を覆うばかりである。

 元来「アート」は権力の周辺で批判的ポテンシャルを爆発させたものだが、これも80年代消費社会の中で完全に体制化された。

 特に「アヴァンギャルド」を自称していた空間にそれが該当する。これはある程度世界的に該当する傾向であり、歴史家ホブズボームが『20世紀の歴史』の中で「アヴァンギャルド死す」の章を設けた所以である。

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 しかし、村上隆はともかくとして21世紀に入って、落合Jrやスプツニ子!が「アーティスト」を自称するにようになったのは、「劣化二乗」という所だろう。

 落合陽一は「身分制にもいい所がある」として古市ともに、「民主主義解体」を鼓吹し、スプツニ子!はネオ・リベエリートに「バラエティー」と(代理母出産の可能性)」を提供する、といった具合である。

 こうなってくると、「芸術家」というよりは「芸能人」であり、その辺りのことも自覚して「アーティスト」などと名乗っているようだ。

 サブカルの中でも比較的多様性があると思われる漫画にも最近自称「脳科学者」中野信子原作のものが侵入していると聞く。

 中野信子と言えば芸能プロダクションに登録・TVレギュラー、昔外で食事中「アジア人で主体的に思考できる人は2割以下と脳科学で証明されている」とTVで話しているのを聞いて椅子から転がり落ちそうになった。

 この人は三浦瑠麗と違って、一見「政治」的な矢面には立たなず、反感も持たれにくいのか、着実にキャリアを積み重ねているが、彼女の振りまく「脳科学」言説の「いかがわしさ」は三浦瑠麗と「どっこいどっこい」である。

 芸能とて近世には権力と距離をとっていたものだが、現代の「芸能」は文字通り権力の幇間に堕した(吉本を見よ)。

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