またヘーゲルは、仏軍に解放されるまで「ゲットー」に隔離されていたユダヤ人に対しても、公民権の付与を主張。フィヒテなど当時のナショナリズムの反ユダヤ主義的言説と明確に一線を画します。
 当時の学生運動ブルシェンシャフトがナショナリズムと「反ユダヤ主義」を結合させ、過激化したことを激しく批判している。

 また政教分離を徹底した世俗国家を主張するヘーゲルは、兵役拒否を含む宗派を含む、「信教の自由」を支持する。

 また司法制度に関しても、「領主裁判権」の廃止と裁判の公開を主張。

 このようなヘーゲルの立場は、ナポレオン戦争後の法典編纂問題では亡命ユグノーの子孫であるティボーと平仄を合わせるものであり、歴史学派の巨頭サヴィニーとその一派との激しい権力闘争を展開(「法哲学」)。

 であるから、一言に啓蒙主義VS ドイツ歴史主義といっても、サヴィニー、シュライエルマッハー、シュレーゲル兄弟などのドイツロマン派とヘーゲルは明確に対立していた。

 とは言え、現実的妥協を知るヘーゲルはプロイセンの元での漸進的改革の道を選ぶ。

 しかし、この妥協を拒否したかつての友ヘルダーリンは1807年には狂気に陥り、1843年に没するまで精神病棟に隔離。ヘルダーリンの再評価が始まるのは20世紀に入ってからです。

 一般に英独仏語圏全てでヘーゲルはドイツ観念論の旗手として最も「ドイツ的」と見做されます。

 しかし、私見によれば、ある意味カントよりもフランス的、少なくともフランス革命賛成の立場を貫き、その態度を言説にも慎重に潜り込ませている。

 そもそもプロイセン軍が大敗したイエナ・アウエルシュタットの戦いの際、イエナ大学は閉鎖。ヘーゲルは大学のポストを失います。それでも尚、フィヒテ、サヴュニー、ドイツロマン派とは一線を画してフランス革命を擁護し続けた。

 例えば『法哲学』では仏民法典(ナポレオン法典)に定められた均等相続を支持。同時に遺言によって相続者を自由に指名できる英国法を「家長の恣意を可能にする」と批判。

 またローマ法では家長が成員に対して生殺与奪の権をもち、法的には家長にとっての「物権」に過ぎない。これをヘーゲルは批判し、いわば(性別役割分業を含めた)近代家族モデルを提出。この点は「ヌーヴェル・エロイーズ」のルソーとも通じる。

 さらに決定的な点は社会の構成員の複数性を哲学の領域に持ち込んだこと。これは「精神現象学」から「法哲学」まで一貫しており、ドイツ哲学には希。

 複数性と秩序のアポリア、これも19世紀仏で一気に前景化する。いわば「法哲学」をその事態を先取りしていたのである。

 

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「法哲学」は(正)

 尚、国家と社会を明確に概念的に区分した上で両者の関係を施行するようになったのも、ヘーゲルからです。

 政治・社会に関する見方・センスに関する限り、ハイデガーはヘーゲルと比較すると、ある種「退行」現象という他ない。

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