Twitterで、僕の教え子(学部生)が「川瀬先生、思想が強くない?」と呟いていて、まあまあファボられているのを発見。ファボったのはおそらく彼の同期生とかだろう(鍵付きのアカウントが多くて、推測だが)。
確かに僕は政治的なイシューも多く呟くから、そう思われても仕方ないとは思うが、僕がどんな話題を出した時に彼がそう思ったのか、が結構問題。現政権批判、反維新、反原発、反差別など、「反抗的」であるのを大雑把に「思想が強い」とまとめる感性には「年長者」として「じゃあ、君はどう思うの?(思想はあるの?)」と問い掛けねばならないだろう。まあ、まだ直接は言わない。しつこく「思想の強い」態度や姿勢を見せて、少しは己のことを考え直してくれれば、それで十分だと思っている。
BT)した川瀬貴也先生の投稿で、「思想が強い」というネットスラングがあることをはじめて知った。
しかし、これを読むと「思想が強い」の発話者はどうも、「統治権力に従順」で政治権力を批判する人には「肩をすくめ合って」いる「右翼」ということのようだ。
川瀬先生がここで言及している「反維新、反原発、反差別」などは「強い思想」がなくても、人としての「常識」があれば、当然のこと。
この発話者達はまだ大学の先生に対しては「思想が強い」というやや中和的な言葉を使っているけれども、同級生に対しては、もっと右派的な態度を露骨にとっているだろう。
ま、こういう「弱きを挫き、強きに媚びる」人間、若くてもいつの時代にもいるものである。
しかしそうでない学生もいる。
むしろ多数派だといってもいい。ただ、そういう学生は「思想が強くない」ので、右派学生の「声の大きさ」に圧倒され、萎縮することになりがちである。
であるから、川瀬先生が「思想の強い」態度を示すのは、「公共的」に大きな意味をもっている。とても立派なことだと思う。
それにしても、「思想が強い」と他人を貶める態度は、要するに権力者に「媚びる」、伝統的な「日本の無思想」の反復としか感じないのは私だけだろうか?
[参照]