尚、画像はラファエロによる「教皇レオ10世」。
レオ10世は、フィレンツェ・ルネサンスのパトロン、ロレンツぉ・ディ・メディチの次男だけあって、芸術家の保護、芸術振興には熱心でした。
またレオ10世の従弟にあたるクレメンス7世も同様。マキャベリに『フィレンツェ史』やミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の壁画などもクレメンス7世のパトロネージの一環です。
ただし、政治的には仏のフランソウ1世と同盟、神聖ローマ皇帝カール5世と対立したたため、ローマ劫掠(Sacco di Roma)を招きます。
この仏との同盟は、シャルル8世の有名なイタリア遠征(仏では知らぬ人はいない)以降、メディチ家のフィレンツェが選択した「安全保障」戦略。
ローマ陥落の後、クレメンス7世はカール5世と和睦。クレメンスの子、アレッサンドロはフィレンツェ大公として帰還。
その意味ではローマ教皇というよりメディチ家の利害を優先したと言える。
その観点からバランスをとるためにメディチ家からフランソワ1世の子アンリに嫁いだのが、「聖バルテルミーの虐殺」で名高いカトリーヌ・ド・メディチ。
まるで日本の戦国時代ですが、ちょうど時期も重なる。ただ規模が全欧規模だったので、ついに最強国家スペインによる統一はならなかった。