さて、中世では「ウリガータ」(ヒエロニムス訳ラテン語聖書)が近世以降と同様に重視されていたか、と言えばそれは違います。
中世のカトリックの大司教、枢機卿、教皇のほとんどは「聖書」など読んだことがなかった。代わりに、彼らが精通していたのは教会法。
つまり、カトリックとは中世ラテン世界をまとめ上げている教会という名の組織であり、その組織の運用のルールである教会法、それにその言語であるラテン語によって、広範囲の官僚組織として機能していた。また一応、法的には「独身」とはなってはいますが、事実上の「妻」が複数おり、子供も複数いた。
有名な例ではルネサンス期のアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)と息子チェーザレ・ボルジアです。チェーザレは最初枢機卿、次に教皇軍司令官となってイタリア統一を目指します。マキャベリが「君主論」を捧げたのは、このチェーザレに対して。
聖書を「読む」ことが、宗教上重要な意味を与えられるのは、ルターの「宗教改革」、教皇レオ10世(ロレンツェ・ディ・メディチの次男ジョバンニ)の時から。
これに対してカトリックは大衆が聖書を「読む」ことを禁止、分かりやすいバロック芸術で啓蒙する道を選択。
あれやこれやでグーテンベルクの印刷技術と結びついた独語圏の識字率急上昇となる。
尚、画像はラファエロによる「教皇レオ10世」。
レオ10世は、フィレンツェ・ルネサンスのパトロン、ロレンツぉ・ディ・メディチの次男だけあって、芸術家の保護、芸術振興には熱心でした。
またレオ10世の従弟にあたるクレメンス7世も同様。マキャベリに『フィレンツェ史』やミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の壁画などもクレメンス7世のパトロネージの一環です。
ただし、政治的には仏のフランソウ1世と同盟、神聖ローマ皇帝カール5世と対立したたため、ローマ劫掠(Sacco di Roma)を招きます。
この仏との同盟は、シャルル8世の有名なイタリア遠征(仏では知らぬ人はいない)以降、メディチ家のフィレンツェが選択した「安全保障」戦略。
ローマ陥落の後、クレメンス7世はカール5世と和睦。クレメンスの子、アレッサンドロはフィレンツェ大公として帰還。
その意味ではローマ教皇というよりメディチ家の利害を優先したと言える。
その観点からバランスをとるためにメディチ家からフランソワ1世の子アンリに嫁いだのが、「聖バルテルミーの虐殺」で名高いカトリーヌ・ド・メディチ。
まるで日本の戦国時代ですが、ちょうど時期も重なる。ただ規模が全欧規模だったので、ついに最強国家スペインによる統一はならなかった。