どうも、「式典の途中でシュプレヒコールが聞こえてきた」という国民民主党首玉木の主張自体が、「事実」に反する、という説もあるようだ。
だとすると、要するに「後半」の主張のための「デマ」ということになる。
ただし、いずれにせよ「公式の式典」は政治的妥協の儀式であるから、その外で「シュプレヒコール」があるのは、完全に「言論の自由」・「表現の自由」の範囲内であり、また政権の軍拡方針や事実上核兵器出入り自由の現状を可視化するためには、必要なことでもある。
どうも、「シュプレヒコール」や「デモ」をはじめとする院外行動を「過激な行動」と貶めるレトリックが横行しているようだ。
例の魯迅研究者の「スト破りに対する制裁云々」発信などもその典型である。
デモやシュプヒコール、争議権も含む労働権などは、現行憲法と議会制民主主義でも、根幹となる「権利」、であることを抹消しようとする言説戦略が作動していることは間違いない。
改憲に際しても、この戦略に基づいて、圧倒的な資金力によって広告・広報を占拠、同時に「反対派」を「一部の過激派」とする認知メカニズムを起動させるつもりだろう。
それにしても、民主系のスタンス、あまりにも頼りない。玉木、前原的なものと断絶を明示しなければ、いずれ消滅は避けられない。