「式典の最中、今年もシュプレヒコールが聞こえてきた。核抑止論の限界を訴える広島市長の演説の時も、平和を願う子どもたちの演説の時さえも叫んでいた。「戦争反対」と聞こえたが、まるで「平和反対」運動のよう。もうやめませんか。常識ある国民の共感は得られません。カッコ付き「リベラル」の限界。」by 国民民主党党首玉木雄一郎
この投稿、8月6日広島での記念式典に出席した際のものと言う。
うーむ。近年党首級の政治家の「滅茶苦茶」発言が続く。国民民主の玉木だから想定内と言えるが、仮にも野党党首(形式的)が「ヒロユキ」語法とは・・・
「戦争反対」が「平和反対」運動だとは、俗流ヘーゲル主義者でも引っ繰り返るだろう。
公的な式典内では、現在の日本政府の対中包囲網にかこつけた軍拡方針を批判できない。
また実際には米国の核兵器が日本に出入り自由なことを可視化するためには、シュプレヒコールがあるのは当然のこと。
政治的に危機的なのは、国民民主が元来、連合ー民主党右派、そして現在の立憲民主執行部も実質それに近いこと。
つまり自民・維新以外の野党主要部分が「リベラルの限界」などと嘯いている。
「もうやめませんか」とはこちらが言いたい。まさに「常識ある市民の共感は得られない」とはこのことである。
どうも、「式典の途中でシュプレヒコールが聞こえてきた」という国民民主党首玉木の主張自体が、「事実」に反する、という説もあるようだ。
だとすると、要するに「後半」の主張のための「デマ」ということになる。
ただし、いずれにせよ「公式の式典」は政治的妥協の儀式であるから、その外で「シュプレヒコール」があるのは、完全に「言論の自由」・「表現の自由」の範囲内であり、また政権の軍拡方針や事実上核兵器出入り自由の現状を可視化するためには、必要なことでもある。
どうも、「シュプレヒコール」や「デモ」をはじめとする院外行動を「過激な行動」と貶めるレトリックが横行しているようだ。
例の魯迅研究者の「スト破りに対する制裁云々」発信などもその典型である。
デモやシュプヒコール、争議権も含む労働権などは、現行憲法と議会制民主主義でも、根幹となる「権利」、であることを抹消しようとする言説戦略が作動していることは間違いない。
改憲に際しても、この戦略に基づいて、圧倒的な資金力によって広告・広報を占拠、同時に「反対派」を「一部の過激派」とする認知メカニズムを起動させるつもりだろう。
それにしても、民主系のスタンス、あまりにも頼りない。玉木、前原的なものと断絶を明示しなければ、いずれ消滅は避けられない。