大学で新左翼学生運動やったことがアイデンティティの全共闘世代のひとたちがマスコミや文化産業に入って、「俺たちは学生運動やって革命目指して偉かった。でも無駄だった。挫折した。学生運動は無駄。かっこわるい。これからは軽く生きるのがナウい。これからはポストモダン!!」みたいな流れをつくったから、そのあとの世代は、まじめに勉強したり運動したりすることがとてもやりにくくなった。あと、こういう文化産業ヘゲモニーおじさんは、機嫌をとってくれる「全共闘世代偉い」史観の若者を業界に採用しつづけるから、「父よ、あなたはえらかった」みたいな「全共闘は凄い」的な企画がずっと通り続けてる。
ヘゲモニーおじさんたちは自分たちこそ真の左翼で他のはダメ、みたいな妨害もするし、運動も文化産業もめっちゃ衰退化させられた。私は、そういうおじさんたちとそのエピゴーネンに対して、ずっと怒ってる。
社会的な弊害も大きいし。例の早稲田の文芸のセクハラ事件だって、そういうミソジニーおじさんが業界を牛耳ってそこに参入したい若者を手下にしてきた構造を温存してきたから起きてるんだし。
そういう新左翼文化人のミソジニー空間でいっしょにお酒飲んだり、交流を自慢してるひとっていまだにいるけど、自分もいわばホモソ共犯者なのになんで誇らしげなのかな、と思っている。
鈴木道彦はサルトルの影響でアルジェリア民族解放戦線(FLN)に関心を抱くようになり、帰国後在日の問題に関与するようになった。
加藤周一さんの留学時代は1950年代初頭だったが、まだアジア系の留学生がほとんどいなかったこともあり、実は身辺、旅行先まで詳細に警察にリスト化されていた。
夏休みに長期かけて、ロマネスク建築(基本、地方にある)を見て回った時の旅程まで記録されてあった、というから凄い。(これ、当然電子監視下前)。
つまり、当時フランスでも得体の知れない外国人(加藤さんは国費留学生だったけれども)は、「潜在的犯罪者」だった。
フランスは革命の国、政治秩序への同意調達が弱い国ではあるが、反面警察・治安権力は、かなり暴力的。内務省管轄の重火器装備の治安軍もある。
蓮実・渡辺守章以降のフランス学は、こうしたフランスの一面(かなりミクロ)しか導入していない。
これが大衆化すると「おフランス」。
新左翼については、旧左翼との関係、複雑な問題を含む、ここではすべては扱えない。
しかし、「ホモソーシャル」+「ミソジニー」爆発空間であったことは間違いない。
日本のフェミニズムが「新左翼」批判として出発したのは偶然ではないのです。