「長男の甚六」は死語?
最近の若い世代の人に聞くと「長男の甚六」、「兄弟は他人の始まり」というフレーズ、知らない方が多い。
多分、1970年代生まれ位の人までは「聞いたことがある」場合の方が多いのでは?
これは、日本における直系家族のゾンビ化と関係します。
前者の長男一括相続は、規範の変化+少子化によって緩やかに消滅しつつある。
ただし、逆に母子癒着については、男性の「総長男化」が起こっている、とも言える。
後者の諺は、兄弟姉妹の間の近世以来の「連帯」の弱さと相関する諺。
近世以来共同体複合家族地帯の中国では、これは「あり得ない」。相続規則も男性均等相続。ですから、東アジア・儒教文化圏と言ってもかなり多様。
日本の「連帯」ハビトゥスの希薄さは、近世以来安丸良夫さんの所謂「通俗道徳」として現れます(ただしこれは私の解釈です)。
この通俗道徳が明治以来の立身出世主義へと結合していったと考えられます。
そして立身出世と学歴主義、そして母規範が結合。
こう考えると日本社会の「連帯」・「平等」への無関心+自己責任論の根は案外と深い。
となると、現在の学歴が上がっても、地位が前世代より下がる、という出来事は140年間続いた「約束事」の崩壊は、まさに「移行期」危機です。
補足2)
「民刑事上の平等」とは、「身分」に関わらず、債権ー債務(民法)、殺人・傷害(刑法)の上で「形式的平等」が保証されている状態、と定義できます。
ですから、英では現在でも貴族はいますが(上院のメンバーは貴族のみ)、殺人・傷害事件では平民と同じ刑法・刑事訴訟法が適用されます。
法制度上、この状態にある社会を「自由主義」化した社会、と定義してよいでしょう。
この「法学的」自由主義によってはじめて資本主義も円滑・能動的に作動し得る、という視点は、いわゆるマルクス主義の「上部構造」論とは一線を画することとなります。
これが私の定義する、「国家」=「法」と資本主義世界経済が相互に「還元不可能」な複合メカニズム、としての「近代世界システム」の一つの明瞭かつ具体的な徴、となります。
このように定義された近代世界システムは18世紀イギリスでは、ほぼ成立しています。
この歴史的文脈からもわかるように、「近代世界システム」にとって、「民主主義」は必須ではありません。
20世紀までの英国は、立憲主義・自由主義体制ではありますが、決して「民主主義」体制ではありません。
E.バーク以来、fromフランス革命 to WWI 民主主義は、立憲主義・自由主義と対立するものとされていました。