補足)通俗道徳論について
安丸良夫さんの「通俗道徳」論の私の解釈については、「現代思想 総特集 安丸良夫」(2016)を参照していただければ幸いです。
ここでは、「通俗道徳」を競争社会への「自己陶冶」の技法(フーコー)として解釈する線を強く押し出しました。
一般に、大坂を中心にした経済・金融ネットワーク、商品市場の活性化、マニファクチュアなど、経済的に見れば、江戸時代、とくに18世紀以降は「初期資本主義」的段階に入った面があります。
しかし、「私的所有権」の絶対不可侵、それと関連して「質流れ」以外の不動産売買の自由化、という点でまだ「資本主義経済」とまでは言えません。(例えばいわゆる大名貸しの「踏み倒し」)。
18世紀の英では、どんな爵位の貴族でも借金を返せない場合「債務者監獄」に原則的には収監されます。
これ、19世紀にも続いたので、「ホームズ」シリーズでは、没落した貴族の犯罪、というパターンがあります。
法学的な刑民事上の形式的平等(「自由主義」)と不動産売買の自由化・大土地所有の実現、格差の加速度的拡大は、やはり明治以降、ということになるでしょう。
従って江戸は「近世」、「近代」は明治から、という区分が適切である、と思われます。
補足2)
「民刑事上の平等」とは、「身分」に関わらず、債権ー債務(民法)、殺人・傷害(刑法)の上で「形式的平等」が保証されている状態、と定義できます。
ですから、英では現在でも貴族はいますが(上院のメンバーは貴族のみ)、殺人・傷害事件では平民と同じ刑法・刑事訴訟法が適用されます。
法制度上、この状態にある社会を「自由主義」化した社会、と定義してよいでしょう。
この「法学的」自由主義によってはじめて資本主義も円滑・能動的に作動し得る、という視点は、いわゆるマルクス主義の「上部構造」論とは一線を画することとなります。
これが私の定義する、「国家」=「法」と資本主義世界経済が相互に「還元不可能」な複合メカニズム、としての「近代世界システム」の一つの明瞭かつ具体的な徴、となります。
このように定義された近代世界システムは18世紀イギリスでは、ほぼ成立しています。
この歴史的文脈からもわかるように、「近代世界システム」にとって、「民主主義」は必須ではありません。
20世紀までの英国は、立憲主義・自由主義体制ではありますが、決して「民主主義」体制ではありません。
E.バーク以来、fromフランス革命 to WWI 民主主義は、立憲主義・自由主義と対立するものとされていました。