後期ルネサンスからマニエリスムへ

ルネサンスの中心はロドリーゴ・ボルジア(チェーザレの父、アレクサンドル6世)、ユリウス2世、レオ10世(ラファエロの肖像あり)等が教皇になっていたローマに移ります。

ラファエロ、ミケランジェロも活躍の場をローマに移します。

逆にレオナルドは当初ミラノ公国の「僭主」イル・モロの下、青銅騎馬像などを製作、イル・モロがフランス軍に倒されるとチェーザレ・ボルジアの軍事開発部門責任者となり、チェーザレはユリウス2世の権謀術数によって没落すると、最終的にフランソワ1世に庇護される。

ここから神聖ローマ皇帝カール5世の「ローマ劫略 Sacco di Roma」までが盛期ルネサンス、以後がマニエリスム、となります。

しかし、何故キリスト教普遍帝国を目指しすカール5世とローマ教皇クレメンス7世が戦争を?

これは当時のローマ教皇が「ローマ教皇領」の君主であったことと関係します。

つまり、イタリアの一君主としてはカール5世の欧州統一は阻止したい。

それ故の合従連衡の結果が「Sacco di Roma」です。

ローマ劫略にはプロテスタント・ドイツ人傭兵(Landsknecht)が多数参加。

普遍帝国の内部崩壊=インターステイトへの移行の象徴と言えます。

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「ローマ劫略 Sacco di Roma」は、1527年です。

すでにポスト・ミケランジェロ・ラファエロとして始動していた「マニエリスム」(cfポントルモ「十字架降下」)は、この事件によって決定的な流れとなります。

ミケランジェロ、ラファエロにあって、ルネサンスの過程でほぼ完成された「技法」と古典主義的均衡は崩れ去ります。

ジュリオ・ロマーノの「巨人族の没落」は、まさにそのことを象徴する大作です。

ここでは、ラファエロまでに開発された技法が、「世界の終末」の「ダイナミックさ」を表現するために惜しみなく動員されます。

こうした「崩壊感覚」を表現するマニエリスムが美術史的に再評価されるようになったのは、「世界の終末」が現実的可能性を帯び始めたWWII以後になってからでした。

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