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ふとしたことから『蕎麦春秋』なる季刊誌があることを知ったのですが、表紙画像を見ると「NO WAR そば店に行こう!」とあり、最初一瞥したときは官見の限りでトップクラスに取ってつけたような「NO WAR」やなぁと若干ゃ苦笑したのですが、しかし「保守とは、横丁の蕎麦屋を守ることである」という福田恆存(1912〜94)のアフォリズムを既に見知った眼から見ると、この「NO WAR そば店に行こう!」は一周回ってムリヤリいいことを言っているのかもしれないなぁと、逆に感心してしまいました。蕎麦は麺類として食べられるようになる(16世紀のことらしい)はるか以前の古代から救荒作物として栽培されてきたそうで、その意味では日本人にとって稲と同程度に身近なものだったのかもしれない。それを〈(保守主義と似て非なる)保守〉のソウルフードにしたところに、福田の慧眼があるのではないか。「NO WAR そば店に行こう!」は知ってか知らずか──ぃや蕎麦専門誌の編集部が知らないはずはないのですが──そうした〈保守〉と共鳴している。
この福田恆存のアフォリズムをそのままタイトルにした福田和也(1960〜)氏の近著があり(福田和也『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』(河出書房新社、2023))、発売当時──といっても半年ほど前の話なのですが──は著者近影における福田氏の激ヤセぶりが話題に(?)なっていたものですが、その福田氏が《毎日、とは言わないまでも日常に通う店、つまりは自分の生活スタイルを保持すること、そのために失われやすいものに対して、鋭敏に、かつ能動的に活動する精神を、保守と言う》(p128)という〈保守〉観を開陳したとき、そのソウルフードがもともと救荒作物としてあった蕎麦であるということは、〈保守〉が単なる思想や観念ではなく食(をめぐるエコノミー&エコロジー)でもあることを雄弁に語っているわけで。そこから語られる「NO WAR」には、戦後日本における平和主義とはまったくレベルの違うスゴみが存在すると言わなければならないでしょう。近年の左翼がアイデンティティ・ポリティクスにうつつをぬかしている中で欠落させていったのは、かかる位相にほかならない。