[社説]日本政府の「慰安婦賠償責任」を再確認した歴史的判決
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アメポチで言われるがままに自国の市民の正義を通そうともしない行政府になってしまっても、司法はそういう政治屋を忖度することなく判断を下した、ということであり、三権分立が機能しているということなんだけれど。

そういうのをよく理解してない諸島の政府とかマスコミはこぞって「反日ガー」とか騒ぎまくってるんだろうな。
くだらなくてチェックしないけど。

よく理解してない、というか、よく理解しているからこそ自国民に気付かれまいと騒ぐのかもしれないけれど。

チェックするのも下らないとか言いながらFIFI_Egyptをチェックしてしまったり。
安定でした。

なんとなく1週間ほどのツイートを眺めてたのだけれど、中国韓国北朝鮮を叩くお仕事は忠実にこなしているけれど、パレスチナ関連はフツーにまともな事書いてた。
まあそういうお仕事なんでしょうね。
しかしまあ、これだけの言語能力を持ってやってることが隣国への憎悪を煽る第三者、って虚しくないのかなあ。

前から言ってますけど、こういう過剰適応者というかビジウヨを非難する気にはあんまりなれなくて、腐敗した土壌に根を下ろしてしまったばっかりに毒をまき散らす、アレなんつったっけ、ナウシカの世界の植物みたいな、そんな印象を受けました。
まあ毒は毒なんで受け付けませんけど。

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過剰適応、と自分で言っときながら適応とはまた違うのかなー、とかモヤモヤと。
大衆迎合というか。
大衆に受け入れられるように適応したといえばそうなんでしょうけども。

なんつーか、日本国外ルーツというか、"ヤマト"由来というか、そういうルーツ以外の人というか、そういう人に限らないんですけど。
ビジウヨとか、我が亡き後に洪水よ来たれスタンスの政治屋とか、国内レベルにしても国際レベルにしても分断を煽る事でオマンマ食ってる人々というのは、なんというか、"この社会が壊れようが何しようがどうでもよくて、ただ"私"だけがいい思いをできれば、あとはどうでもいい"なんだよなと。

なんつーか、"私に良い環境が欲しい"というのは人間誰しもが持つ願いであって、これは誰に否定されるものではないのだけれど。
そこに、"みんなにとって良い環境であれば、私にとっても良い環境である"となるのか、"荒涼とした北斗の拳みたいな世界だから、他人を蹴落として搾取して私にだけ良い環境を得たい"となるのかの違いというか。

"私"のボーダーラインをどこに引くか、って問題もありますけどね。
自然人としての"私"だけなのか。
家族だけの私たち、地域としての私たち、政治思想を共有する私たち、宗教、エスニシティ、性自認、全人類、全生命…とどこまでもボーダーラインは引けるので。

ちなみにお釈迦様は、このどこにでも引けるボーダーラインはどこにでも引けるが故に妄想なのだ、と看破しており、このボーダーラインをぶっ壊す、というか、そもそも存在しない事に気付く、というパンクな事を教えていて私なんかはゾクゾクするわけですが、まあそれは人それぞれで。

ただ知る、知ったつもりになる、ではなくてまざまざと経験してたゆまぬ努力をして、ようやくこの長い間掴み続けてきた妄想を乗り越える事ができる、かできないか、というワケわかんない世界なので万人ウケするはずがないんですよね。
それで大衆迎合して大乗仏教が誕生したわけですが。

何の話だ。

完全に自分用メモですが、このボーダーラインを無くす修行をsimavedaと覚えてたのですが、正しくはsīmāsambhedaでした。

というわけで”愛国”とか言いながら壁を立てまくり境界線を引きまくって外の荒廃を願うわけですが、実際には内も外もペンペン草も生えないほどに荒廃させてしまう排外主義はロクでもねえよな、と。

笑えるのはこの排外主義に凝り固まりながら”生きとし生けるものが幸せでありますように”とかお唱えしてれば自分は清浄になるとか思いこんでる連中が多い事多いこと。
ジャパンだけではなくね。
ジャパンにめっちゃ多いのはもちろんそうですけど。

最初の参考記事からどんどんズレますけど、話ついでに書いとくと。

この心のボーダーラインをなくす、減らす試み、修行は、なんつーか「ああ妄想なのね!今はまだあると思ってるけど妄想だったら無かった事にしよう!うん無かった!」という、信じてないけど信じたことにしよう、という間違った事をやってしまってる人々が世界中でとても多く。
そうではなくて。
ボーダーラインがある、と思っているのは間違いないわけですよ。

たとえば私なんかもいい人だと思い込みたいので、ボーダーラインがあると知ればそれを無かった事にしようとしたいわけですが、それで自分の中のボーダーラインが消えるわけではないのですよ。

どうやって実践するか、というと、本が何冊でも必要になるわけですが。
テーラワーダ仏教だとMetta Bhavana、慈悲の瞑想とかをやりますけどまずは "aham averohomi"、”私が幸せでありますように”から始まるわけです。
自分すらも肯定してなかったりするわけで。

以上はテーラワーダ仏教界隈の話ですが、反差別界隈でもですね、私は差別してない、みたいな人が散見されましてですね。
私というのは差別する存在である、とミッチリ自覚したうえで、じゃあどうしたら差別を減らせるか、とやってく内観みたいのが必要なのでは、と。

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