[社説]日本政府の「慰安婦賠償責任」を再確認した歴史的判決
https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/48474.html
アメポチで言われるがままに自国の市民の正義を通そうともしない行政府になってしまっても、司法はそういう政治屋を忖度することなく判断を下した、ということであり、三権分立が機能しているということなんだけれど。
そういうのをよく理解してない諸島の政府とかマスコミはこぞって「反日ガー」とか騒ぎまくってるんだろうな。
くだらなくてチェックしないけど。
よく理解してない、というか、よく理解しているからこそ自国民に気付かれまいと騒ぐのかもしれないけれど。
過剰適応、と自分で言っときながら適応とはまた違うのかなー、とかモヤモヤと。
大衆迎合というか。
大衆に受け入れられるように適応したといえばそうなんでしょうけども。
なんつーか、日本国外ルーツというか、"ヤマト"由来というか、そういうルーツ以外の人というか、そういう人に限らないんですけど。
ビジウヨとか、我が亡き後に洪水よ来たれスタンスの政治屋とか、国内レベルにしても国際レベルにしても分断を煽る事でオマンマ食ってる人々というのは、なんというか、"この社会が壊れようが何しようがどうでもよくて、ただ"私"だけがいい思いをできれば、あとはどうでもいい"なんだよなと。
なんつーか、"私に良い環境が欲しい"というのは人間誰しもが持つ願いであって、これは誰に否定されるものではないのだけれど。
そこに、"みんなにとって良い環境であれば、私にとっても良い環境である"となるのか、"荒涼とした北斗の拳みたいな世界だから、他人を蹴落として搾取して私にだけ良い環境を得たい"となるのかの違いというか。
最初の参考記事からどんどんズレますけど、話ついでに書いとくと。
この心のボーダーラインをなくす、減らす試み、修行は、なんつーか「ああ妄想なのね!今はまだあると思ってるけど妄想だったら無かった事にしよう!うん無かった!」という、信じてないけど信じたことにしよう、という間違った事をやってしまってる人々が世界中でとても多く。
そうではなくて。
ボーダーラインがある、と思っているのは間違いないわけですよ。
たとえば私なんかもいい人だと思い込みたいので、ボーダーラインがあると知ればそれを無かった事にしようとしたいわけですが、それで自分の中のボーダーラインが消えるわけではないのですよ。
どうやって実践するか、というと、本が何冊でも必要になるわけですが。
テーラワーダ仏教だとMetta Bhavana、慈悲の瞑想とかをやりますけどまずは "aham averohomi"、”私が幸せでありますように”から始まるわけです。
自分すらも肯定してなかったりするわけで。
以上はテーラワーダ仏教界隈の話ですが、反差別界隈でもですね、私は差別してない、みたいな人が散見されましてですね。
私というのは差別する存在である、とミッチリ自覚したうえで、じゃあどうしたら差別を減らせるか、とやってく内観みたいのが必要なのでは、と。
"私"のボーダーラインをどこに引くか、って問題もありますけどね。
自然人としての"私"だけなのか。
家族だけの私たち、地域としての私たち、政治思想を共有する私たち、宗教、エスニシティ、性自認、全人類、全生命…とどこまでもボーダーラインは引けるので。