あー、くねくねと地域芸術を結びつけるのはすっごくわかる。
昔くねくねを読んだときは、真っ先に、越後妻有のカバコフ作品(農作業の青いシルエットが山腹にある)を連想したんだ。越後妻有にはボルタンスキーの白い衣服がひらひら畑で舞ってる作品もあったし。
地方芸術祭とネット怪異譚
https://kakuyomu.jp/works/16817330657174166773/episodes/16817330657174702464
この記事を書いた酒井貴史自身が美術家で、伝承を模したり捏造する系統の作品を作ってるんだな。その立場上、怪談が他人事ではなくなるわけか。
出品略歴がある
https://shinano-omachi.jp/asahi-air/artists/takafumi-sakai
https://nakanojo-biennale.com/artist/takafumi-sakai
Twitterアカウント
https://x.com/koukanjyo
で、フィクションだとリアリズム様式の回復や、歴史小説とゲームシステムの同時参照が補助線になると見ていて、ゆえに私はゲームから派生したようなフィクションを延々探っているわけだな
メイヤスーの「祖先以前性」トピックって、もはや忘れ去られているけどロシア宇宙主義注目の文脈を作っていて、それらは死者と生の関係一般につながるような問いだった。かつてと違って社会に対する文化と作品の位置付け自体が再審に付される変動が起きてて、そこでセオリーも哲学も宗教の問いと再び交差してるし、宗教以外では各国ごとの右派展開も顕著なことから(フランスのライシテもそれでなんとかなるという信の対象ではなり)、統治や宗教ごと総体を把握するような知のニーズが高まってる。それで文明論に派生しがちだったりしている。
そういう情勢に対するパースペクティブの模索が曖昧にやりすごされている状況があるわけよ。