少しずつ読んでる。アレントハバーマス的な公共−開かれの認識は、そもそも私的空間や親密圏を下位に置く発想であり、ジェンダー秩序に基づくセクシズムが暗黙にあるのではないか?という疑念がコッチャに濃厚にあるんだろうなと推察される。アリストテレスの徳論が騎士や王侯のモラルに転じた中世以降を別の時点でひっくり返したい、というのが隠されたモチーフかなと。
『家の哲学』第3章で、1-2章ではちょっと観念的な話が続いちゃったねとばかりに、エッセイ文体回復ターンとなり、東ベルリンで過ごしたひどい家の話になる。トイレと浴室が理不尽な場所に配置されると、生活の秩序が一変してしまうというのを「パーティでしゃべると絶対にウケる鉄板ネタ」みたいなふうに使ってる。
宮沢賢治『注文の多い料理店』は、近代住宅も屠殺場も両方とも水道設備によって成立するんだなあ、と私は示唆を得た