「左翼アートは認めるが左翼エンタメは忌み嫌う富裕層権威主義者」って昔も今もたくさんいる。右派の場合はわかりやすい。昭和期の自民党議員が左翼アートにも後援していたとか、企業メセナ活動の中に左翼路線が混ざっていることもこの範囲内で説明がつく。今はアパが公然と「後援してるんだから右翼メッセージ出せや」と圧をかけてきそうな状況があり、昭和期の秩序は消えつつある。
かつての秩序は「京都賞・高松宮殿下記念世界文化賞」のパラダイムだとまとめることも可能だろう。それは、海外アーティストにはラディカルレフトだろうが反右翼だろうがばしばし賞を与えるが、国内のそうした作家は無視、かつ脱政治的装いで自民系保守と摩擦を最小化する日本的二枚舌体制でもあった。この秩序は失われつつあるが、冷戦後期時代に日本に浸透・確立しなかった左派エンタメを今こそやろうという機運や、アートの政治性ももっと取り上げようという機運が上昇しつつある。ただし、「左翼アートは認めるが左翼エンタメは忌み嫌う富裕層権威主義者」が左右両方に根を張っているのがやはり障壁になる。
いまだ、論壇プレイヤーも研究者も、階級と文化批評を同時にやれる人がほとんどいないか、あられもなく「大学教員の中産階級身振り」を発露させる人たちだらけ(カルスタの「おのれのポジショナリティに留意せよ」の教えが全く浸透してない)であり、その状態のまま再生産が継続している。
他方で、その中産階級身振りへの反発が単純な逆張りになり、文壇保守と、ラディカルカルチャーへの経路を欠いた論壇秩序への融合をあっさり果たすので、「ラディカルを自称しつる右派にすり寄る形態」にどんどん落ち着くようになっている。そこには「逆」などない。