左派でのこのタイプの脈絡は、二昔前なら市田良彦も浅田彰もそうだったし、今なら王寺賢太もそうだろう。戯画的に言うならこの層は左右ともに「ラディカル左翼教養はエリートの嗜みですことよのお嬢様」だ。ブレヒトとかエイゼンシュテイン、ベンヤミンとか当然読みますよねという高等教育に対応しているのだが、単に階級がストレートに反映されている。
この類型はいま急速に減ってきていて、と同時に右派文芸評論家と区別がどんどん付きづらくなってきている(エスタブ身振りに対する調整能力を欠けた人がとにかく多いのと、英米ラディカルカルチャーを軽視しまくるので)。
他方、00年代以降のネット在野知性の系譜では絓秀実の路線が目立つが、さっきの例えで対比させると絓信者は「ラディカル右翼教養はエリートの嗜みですことよの"平民お嬢様"」に相当する。階級との関係はある意味もっと滑稽になってきているし、旧来のアングラ土俗右翼との差が減ってきている。
その2つともが文化と階級への吟味・介入能力を欠いているのだが、この欠落の発端は、(プロレタリア文学[現代なら左派エンタメと言える方面]の小林秀雄による殲滅が固定された文壇秩序の完成もさることながら)思想論壇と英米ラディカルの接続失敗のまま21世紀を迎えたことにあるんだろう。
いまだ、論壇プレイヤーも研究者も、階級と文化批評を同時にやれる人がほとんどいないか、あられもなく「大学教員の中産階級身振り」を発露させる人たちだらけ(カルスタの「おのれのポジショナリティに留意せよ」の教えが全く浸透してない)であり、その状態のまま再生産が継続している。
他方で、その中産階級身振りへの反発が単純な逆張りになり、文壇保守と、ラディカルカルチャーへの経路を欠いた論壇秩序への融合をあっさり果たすので、「ラディカルを自称しつる右派にすり寄る形態」にどんどん落ち着くようになっている。そこには「逆」などない。