Patricia Meyer Spacks『Gossip』(2012)にかんして調べている途中で見つけたが、こういったゴシップのメカニズムの現在形が、現在のウェブ小説の2chスレを模倣や配信ものなんだろうな。
誰々が実はどこに住んでるとか、誰とくっついたとか、スパチャでいくら飛び交ったといった話題の型がかつての19世紀社交小説の財や繋がりの話題と似ている。人間集団の秩序での関心事がフィクションに流出するときにはだいたいこの枠組みになるということでもあるんだろうけど。
"社交界の人々の興味はヴェニアリング自身ではなく、彼らがもつと思われる財産 や地位、そしてそこに顔を出す人々との繋がりにあるのだ。
(…)見せかけの関係性を構築するための手段としてディケンズはうわさ話、つまりゴシップの機能を利用してい る。ハーマン殺人事件の話は新聞や立て看板を通じて土地を超え、階級を超え、瞬く間に世間に広まっていく。"
佐取愛香「流通する名前 『互いの友』における見せかけの社会と個人」(2022)
http://elsj.org/kanto/_src/606/2022a_proceedings_satori_aika.pdf?v=1681548440203
Spacksの本は1985だった
ジェーンオースティンわかるマンたち、もとい「ジェイナイト」についてのこんな文章があっって面白かった。近過去の日本だと24年組を語る男性のマンスプレイングが似た事例として想起されそう。
キップリング「ジェイナイトたち」の邦訳を探している途中でみつけたが、これは結局訳されてなさそう。
新井潤美「Janeitesの功罪 : ジェイン・オースティン受容についての考察」(2020)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050851497140021120
この新井って、オースティン『マンスフィールド・パーク』の解説でポストコロニアルスタディーズ的読解を嘲笑ってTwitterで晒されてた訳者の一人か。
著作タイトルがいかにもなラインナップ。講談社学術文庫とか新潮選書が手がけているような、英国貴族を羨望する保守言説群(小林章夫とか宇野重規も含む)の一つなんだろうな。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=1127258
小説とゴシップの識別困難さって古代から近代までを眺めていくと、わりと濃厚になっていく。その中でバフチンや怪談論も読み返せそう。
貼った論文は、オースティンは実質ゴシップワールドでメタゴシップだというやつなのと、ディケンズも男性にしてはゴシップワールドをわかっててえらいやんけみたいな読解