多少知見のある人でも、読書会が嫌になってやめるケースはわりとあるんだが、その原因は、読書会には英会話塾などの習い事カルチャーと同じ難点があるからだ。
世の中には英会話塾があるが、その受講生のなかで英語話せるようになるのはごく一握りであり、それはその人が自発的にどこまでやるかで分岐する。大半は受講して「なんか勉強になったなー」と満足してお金払う。書籍に関するトークイベントもレクチャー系の集まりにも同じような面がある。
その場での交遊、コミュニケーション、感想を言う、のサーキットを目当てに転じ、「さて、ここに挙がってる文献読みましたか?」と線引きすると盛大に脱落する。その結果、その場の口頭でのやりとりによって独習の埋め合わせをしようとしてくるため、チャリタブルなインテリがいるとその人の負担が一極集中する。
その結果、ある程度リテラシーがある人一方的に負担かぶせられて搾取される、それに辟易する、という構図が生まれる。
これを防ぐには、参加総数をある程度狭めるか、力のあるインテリが2~3人程度いることで、なんとなく自主学習を前提にする雰囲気を作って依存を減らす、独習のやり方を指南する、などの手ぐらいしかないんだろう。
世の中の大半の読書家は、小説愛好者であるか、人気批評家の文章読むのは好きといった層にとどまる。
これだと、批評理論を援用しているタイプの文章を読めなくなるし、噛み砕きやすくアダプトされた言説を無限に読み続けることになる。「専門書はちょっと」とか言いながら。
(そして世の大半の人は独習でそれらを突破するところまでは行けないので、「どの学部をでたか」がリテラシーに規定的にはたらく)
こうしたアダプト言説ばかりを読んでいると、日本の文芸秩序のドメスティック産業の中で棲む魚みたいになるんだよな。だが、それ以上のスキルをどう手に入れるか、というところで壁がある。