これはかれら、ある種の「保守」層の日頃の考え方:「性犯罪にあう女性は服装や言動に問題がある」「権利は義務を果たしたものにだけ与えられる」といったところと繋がる。逼迫した人生を送るながこうした因果応報の世界観を強固に信じ込んでしまった人にとっては、朝鮮人虐殺のような出来事も「仕方のないこと」として理由付けがなされてしまう。
9月1日に言うのを失念していましたが、この問題について考えるにあたって自分が常におすすめしたいのは藤野裕子『都市と暴動の民衆史』です。本書を読み返すたび、これは明治から現在へ(かれらからわたしへ)一直線に繋がっていく問題なのだと痛感します。
結局そうした「保守」層の因果応報的な考え方は、自身や日本の苦境を受け入れるための精神的な防御として生じているのだと思うのだが、それが、苦境を加速させうる可能性についてはかれらの思考の範囲外にある。人権や社会変革を、机上の空論、理想論として除外されないように提示するためにはどうすればよいのか。彼ら(ないしは私自身の中で彼らの態度を羨ましく思う私)に届く言葉はどこから生じうるのか。