徐京植「和解という名の暴力 ─ 朴裕河『和解のために』批判」
https://note.com/k2y2manabe/n/nb14c34882909
“朴裕河の日本批判はほとんど右派の排外的国家主義者や国粋主義者に向けられた批判(それも甘いのだが)であり、その一方でリベラル派の日本知識人については最大限の理解と共感を表明している。したがって、右派とは一線を画すリベラル派にとっては《耳の痛いこと》どころか、むしろ《耳あたり》がよいのである。朴裕河のすべてのレトリックは究極的には、日韓間の不和の原因は(「日本」にではなく)「韓国」の不信にあるという彼女一流のニセ「和解論」へと収斂する。これが日本の国民主義者にとって《耳の痛いこと》であるはずがないであろう。”
植民地主義の暴力 徐京植評論集Ⅰ
「ことばの檻」からhttps://www.koubunken.co.jp/book/b201916.html
植民地主義の暴力 徐京植評論集Ⅰ
「ことばの檻」からhttps://note.com/k2y2manabe/n/nb14c34882909
ロザ=アメリア・プリュメル
「ここで問われているのは過去の世代が犯した空想の罪などではなく、かつての奴隷貿易国家、奴隷制国家、そして植民地国家が総力を挙げて制度化し、何世紀にもわたって遂行したジェノサイドである。奴隷貿易国家や奴隷制国家が犠牲者たちに負っている負債。これは『過去の世代が犯した』行為のせいで『現在の世代』に押し付けられる『歴史的負債』ではない。これは『いくつかの世代』による行為ではなく、『いくつもの国家』による行為だった。奴隷貿易国家は何百万人もの非ヨーロッパ人男女や子どもの組織的な隷属化と大量殺戮を通じて莫大な富を蓄積し、経済的軍事的強国にのし上がった。この災厄は当該地域の持続的な貧困化と破壊をもたらしてきた。したがって、これらの地域住民とその出身者に対する補償義務に応じることは、かつての奴隷貿易国家が担うべき最低限の責任である。」