徐京植「和解という名の暴力 ─ 朴裕河『和解のために』批判」
note.com/k2y2manabe/n/nb14c348

 “朴裕河の日本批判はほとんど右派の排外的国家主義者や国粋主義者に向けられた批判(それも甘いのだが)であり、その一方でリベラル派の日本知識人については最大限の理解と共感を表明している。したがって、右派とは一線を画すリベラル派にとっては《耳の痛いこと》どころか、むしろ《耳あたり》がよいのである。朴裕河のすべてのレトリックは究極的には、日韓間の不和の原因は(「日本」にではなく)「韓国」の不信にあるという彼女一流のニセ「和解論」へと収斂する。これが日本の国民主義者にとって《耳の痛いこと》であるはずがないであろう。”

徐京植「和解という名の暴力 ─ 朴裕河『和解のために』批判」
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 “すでに述べたように朴裕河の《自国批判》は不誠実な断定に終始しているが、それこそが、リベラル派の消費者にとって市場価値があるのだ。どのような価値か?《節度》ある《良心的知識人》と認められたいという欲望ゆえに抑圧してきた隠された本音を、著者が《自国批判》であるかのようなレトリックを駆使して代弁してくれるという価値である。上野は《著者の自国批判に乗じてはならない》と言っているが、同じ文章の中で《「慰安婦」問題に関わる韓国内の女性団体への(朴裕河の─徐)批判は、日本の運動体がもっとも言いにくかった批判のひとつである》と書いている。”

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植民地主義の暴力 徐京植評論集Ⅰ
「ことばの檻」からkoubunken.co.jp/book/b201916.h

植民地主義の暴力 徐京植評論集Ⅰ
「ことばの檻」からnote.com/k2y2manabe/n/nb14c348

ロザ=アメリア・プリュメル
 「ここで問われているのは過去の世代が犯した空想の罪などではなく、かつての奴隷貿易国家、奴隷制国家、そして植民地国家が総力を挙げて制度化し、何世紀にもわたって遂行したジェノサイドである。奴隷貿易国家や奴隷制国家が犠牲者たちに負っている負債。これは『過去の世代が犯した』行為のせいで『現在の世代』に押し付けられる『歴史的負債』ではない。これは『いくつかの世代』による行為ではなく、『いくつもの国家』による行為だった。奴隷貿易国家は何百万人もの非ヨーロッパ人男女や子どもの組織的な隷属化と大量殺戮を通じて莫大な富を蓄積し、経済的軍事的強国にのし上がった。この災厄は当該地域の持続的な貧困化と破壊をもたらしてきた。したがって、これらの地域住民とその出身者に対する補償義務に応じることは、かつての奴隷貿易国家が担うべき最低限の責任である。」

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