若い時は自分が誤解されるたびに悲しんでその誤解を解くことに必死になったりしたもんだけど、ある年齢から今度は理解されることが煩わしくなっていった。
この理解ってのは少し複雑で、自分が分かってほしいことは理解されたいのだけれど、自分が期待していないところで勝手に理解した気になられるのが不愉快だっていう、非常に身勝手な代物なんだよね。
とまれ、そのうちそのふたつの区分さえどうでも良くなってくる。ひっくるめて理解されるくらいなら誤解される方がマシだとさえ思えてくるようになる。
こうなるとしめたもので、他人に期待しなくなる、ということを覚えるのだな。そう、これは他者への期待の表れ以外のなにものでもないわけで。
とはいえ、徹頭徹尾それができるようになるには、まるで仙人になるための秘薬かなにかでも手に入れなきゃ不可能なわけですよ。もしくは悟りを得るとか。
なので基本、人には期待しない。けど、期待は捨てない。期待した人に出会えたらそれはもう僥倖ってことになる。こういうことだからこそ、年齢を経てからの、気に入った人との出会いは特別なものになるんでしょうね。
少し前に若者がいるバーでそんな話をしました。歳取るのもわるかねえぞ、むしろこんなおもれえことがあんだぜってね。じつに年寄りくさい自慢ですが笑