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メキシコ(アステカ、トルテカ等)の「死者の日」、アイルランド(ケルト)の「ハロウィン」と「死者と生者の境界が曖昧になる」要素のある伝統行事のことが昔から好ましい。
これは私が自死について関心が強いからだ。自死によって残された周囲のもののことを結構長いこと考えていて、卒論もそれを書くために哲学科に進んだ。
あと平素「不気味」だの「怖い」と言われがちな骸骨などが大手を振って現れるところも好きだ。
色合いや見た目も好きだ。

秋の収穫祭を起源とすると思われる、地元の祭りもだいたい終了した。
琉球・沖縄県は「大綱引き(挽、曳)大国」だなと毎年思う季節でもある。

土着の伝統文化、行事、祭事が入植等を受けて変容する、移住した先で他の文化と混ざることは多くあるだろう。
どこからが「侵略者に押し付けられたもの」で、どこまでが「元々の在り方」なのか、定規で線を引くように明確化できることばかりではないだろう。

何か世界的に衝撃をもたらす大きな事件があった時に、「〇〇はヤバい」「〇〇は怖い」というイメージが広がっていくのを見たことがある。
そこから長い時をかけて「〇〇なら皆そう考えているわけではない」と伝え続けているひと/ものたちを見ている。

〇〇に宗教が当てはめられることは多い。

私自身、帝国主義と植民地主義に政治的に利用された「神道」への忌避感は強かった。
今も「神道」を銘打つ組織が家父長制を讃え、異性愛規範に当てはまらないものたちを差別する主張を流布していることも苦々しい。

でも統一された「教義」があるわけですらない、広義の「神道」そのものがすべて否定されるべきものではないだろう。
地元の祭事に、豊作を祝う行事の、どこからが「政治」で、どこまでが「信仰」なのか、数値化して判断ができるわけでもない。

他の世界的な宗教の時は「その信仰を元に“危険視”するな」と言えたことが、「神道」に関しては言えなかった。
所謂「国家神道」と形成され、しでかしたことが自分にとって大きすぎるからだ。侵略した土地に無理やり立てられた「鳥居」に怒りと嫌悪と反感を抱くからだ。
自分に近すぎて、差別の判断が曖昧となることを自覚しています。

地域や文化のそれぞれの神は、「神道」という名称でまとめられて語られてよい存在なのだろうか。それぞれの名前を持つ、それぞれの神なのではないのだろうか。

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