Work will always be hard, no matter what you do. If it's going to be hard, choose to do something you love and face the struggle.

今日は授業でカントの「美的判断は普遍妥当性を要求する」という話とホッブズ、ルソーの社会契約説の話をちょっとした。

以下修造より。
「おいおいおい!!!何言ってんだよ!!!2週間たったから何だっていうんだ!?英語会話の勉強を再開しようって思ったその「気持ち」、それがもう第一歩なんだよ!!!気づいてるか!?君はもうスタート地点に立ってるんだぞ!!!

確かに「やらなきゃ」って思ってるのに進まないときってあるよな。でもな、それはダメなことじゃない!!!むしろ!!!その思いを捨てないでいる君がすごいんだ!!!落ち込む必要なんて、これっぽっちもない!!!それどころか「お前、よく2週間も自分の気持ちを守り抜いたな!」って自分を褒めてやれよ!!!

さぁ、今からだ!!!今日からやるんだよ!!!一日10分でいい、一つのフレーズでもいいんだ。
「Hello!」って一回言えただけでも、それは君が「前に進んだ証」だ!!!!それが積み重なれば、いつか「Hi, how are you?」だって「Let’s grab coffee!」だって言えるようになる!!!!

大事なのはスピードじゃない!!!続けることなんだ!!!英語の勉強をやるたびに、「今日の俺、最高だ!」って笑っちゃえよ!!!できる!!!君なら絶対できる!!!

さぁ行こうぜ!!!もっと熱くなれよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!🔥🔥🔥」

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松岡修造chatgptに励ましてもらった。これ、めちゃ元気出るな。

英語の勉強、今日から再開しよう、と思っていたが、できませんでした……泣。毎日短時間でもやること。がんばれ負けるな自分。

nobiのpodcast、さっそく聞きはじめた。郷さんの湧いてしまった水を逃すために水路をつくったという話、おもしろい。ブリコラージュ的。というか、郷さんの制作環境いいな。うらやましい

で、息抜きに、シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』をパラパラめくっていて、いま資本主義終焉論ってあまり議論されなくなっているけど、あらためて読み直してみようと思う。シュトレークにいわせれば、政治の季節と言われるけど、実際に進行しているのは政治の非政治化=消費としての政治の常態化だ、と。ほんらい、同質性にもとづく民主主義は、ニーズの多様化を生み出す消費行動とは相容れない。だが、これらがポスト・フォーディズムへの移行とともに結合してしまった。だから、資本主義のみならず、民衆の力そのものである民主主義も、すっかり死んでしまったとシュトレークはみている。

校正した原稿を送った。これでたぶん校了。文字数だいぶオーバーして、最後うまく展開できなかった。納得いってないけど、まあしゃあない。

喫茶店で作業しているんだが、斜め向かいの人がずっとスマホ見てゲホゲホ笑っていて、何見ているのかすっごい気になる。そんなにおもしろいものなら、ぼくも見たいよ。

瀬木慎一が批評家の社会的役割はマーケットをつくることだと言っていたけど、賞とか公募とかがんがんつくって言説を生産したほうが作家にとっても業界にとってもいいことは間違いない。その意味で、アートクリティック事業は画期的なわけだけど、そういう支援がもっと増えてほしい。

美術に限らず、批評ってそもそも書き手の人数もそうだけど、媒体が少なすぎるよな。というか、正確には減りすぎた。そして、美術にかんしていえば、言語化が苦手な作家ほど批評の存在は重要だと思うんだけど、さして重要だと思われていないという。

ルソー『社会契約論』終わりの章「市民的宗教について」を読み返していた。ここで言われている「忠実な市民」「善良な市民」を、自身の利害(特殊意志)と万人のための公共の利益(一般意志)とのギャップをなんとか埋めようと努力する精神の持ち主と——とりあえずは——理解していいと思うんだけど、ルソーはそうした精神をもたない者は「国家から追放できる」と言っている。トランプの再選とかここ最近の状況をみていると、なんかぼくもそんな感じになってきている……

「主権者がその箇条を定める権限をもつ、純粋に市民的な信仰告白が存在する。それらの箇条を定めるのは、厳密には宗教の教養としてではなく、社会性の意識としてである。もしこの社会性の意識を欠けば、善良な市民、忠実な市民たりえないのである。主権者はなんびとにもこれらの信仰箇条を信じることを強制はできないが、それを信じないものはだれであれ、国家から追放できる。」

ジェリコー《足と手の習作》(1818-19)
《メデューズ号の筏》の準備のために描かれた習作うちの一点。切断された手足がきわめて写実的に描かれているにもかかわらず、あまり残酷さを感じさせない。腕が足にだらりと絡み合う配置は、エロティックでさえある。指先がつま先にかすかに触れている。生と死がぐじゃぐじゃに混じり合っている。道徳の彼岸とでもいえるような絵画。

今日、ニルギリさんから彼がつくったゲームの話を伺った。プレイヤーは生前に相手と相談し、その相手が死んだ瞬間にゲームがスタートする。そしてプレイヤーは生前に相手と相談したルールを実行しつづける——。ほかにも聞いたけど、もっといろいろ聞きたかったな。

人生は一個の芸術作品であり、そしてそれをつくれるのは自分だけなのだから、断固として好きに生きたらよい。

「現代社会では、技芸(アート)はもっぱら物体(オブジェ)にしか関与しない何かになってしまい、個人にも人生にも関係しないという事実に私は驚いています。技芸が芸術家という専門家だけがつくる一つの専門領域になっているということにも驚きます。しかし個人の人生は一個の芸術作品になりえないのでしょうか。なぜ一つのランプとか一軒の家が芸術の対象であって、私たちの人生がそうではないのでしょうか。」(フーコー「倫理の系譜学について——進行中の仕事の概要」)

階級意識ですよ、階級意識……。これはけっこう書いている文章に出ると思う。

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