差別について 長いので蓋
ある属性を人種化して差別を正当化するということがトランスジェンダーに(も)向けられているということで、「なぜフェミニストの中でそれが…」というのもフェミニストに限らず、"ある属性を人種化して差別を正当化する"ということがどこにも起きうるということでしかないんだろうなと。
"ある属性を人種化して差別を正当化する"の最たるものはかつての植民地支配であり、ホロコーストやポグロムであり、今のイスラエルにも引き継がれている。けれども同じことが女性だけでなくトランスジェンダーやクィアや障害者にも向けられている。だから世界のマイノリティたちがパレスチナに連帯するのも当然と言える。
誰にも差別心はあるのだからそこに向き合おう、と思ってきたのだけど、その差別心との向き合いは"ある属性を人種化して差別を正当化"してきた歴史と近代の発展がワンセットというかいま自分が立つ地平にも地続きであることを解いていくことでもあったのだなあと思う。これは道徳や良心や善意みたいなものでどうにかなるものではなく、学ばないと辿り着けない。
これをレイシズムというのかー、と改めて思って、やっと自分もその学ぶ端緒に立てた気がする。
差別について 長いので蓋
次回のスナック社会科でじゅりあんさんの論考を読み解いていくことをテーマに据えているので、彼が研究し、抗い、実践してきた「差別」とその「対抗言論」について向き合うものになるのだけど、初期の「ふれしゃか」や「HALFTALK」での活動など個々のナラティブやメディアやツール、身体を介しての差別の構造に迫るものから、「帝国のタイムライン」で歴史と安易に同期する危うさと人を二分する危険性を経て、「プラ解」「ゆさカル」での人種資本主義(レイシャルキャピタリズム)を据えた展開へと追っていく中で、じゅりあんさんの残した論考だけでなく、今までの社会科で取り上げた各テーマやゲストたちの話、今起きていること、今までも起きていたことがおぼろげに繋がってきた気がする。
話して答えが出るものではないけれど、これらを登壇する諸先生方にぶつけて、ああでもないこうでもないと言うことが自分にも誰かにも自身にある差別心と向き合い、解いていく過程になるものになればいいなと思う。
差別について 長いので蓋
叶えられない(叶えたい)欲望と消したい不安が合わさると最悪なことになるね。これが集まると安易なターゲットを作って解消しようとする。
家父長制の問題もその被害に遭う女性だけではなく、家父になれない男性の問題も内包している。そして家や家父というものが男性・女性という性の二分化をとことん求める。この辺の欲望もな~。
きりがない、けど、きりはどこかにある(気がする)。
差別について 長いので蓋
これをもっと地べたに下ろして、誰にもわかる言葉で誰とも話し合えていくことを続けないとな。自分でも良くわかっていない。それこそ「怖いけど、恐れない」(山本浩貴氏)でやっていくしか無いですわ。