大石あきこさんが釈明動画の中で「新しい言語」って言っていたのがもやもやしていて、クレオール語のようなものがそれに当たると思うのだけど、新しい言語を作っていくのはあくまでもその言語を使う当事者で(自然発生的)、その国の言語マジョリティの側が規定や提案をするものではないし、それって支配者目線だよなと思った。

たぶんそこまで意識してはいないと思うんだけど、意識せず良かれで出てくるところに問題あるなと思った。

久しぶりに読み返して、パンチラインの連打を受けた。今回のことで言うなら、大石さんの釈明やそれを支持する人への批判も大事なのだけど、同時に自分の足元も絶えず点検しないとなと思う。
note.com/otsukishoten/n/n38daf

「もしかして、特権を『発見』されてしまったマジョリティが動揺しているからこそのリアクションなのではないか」

「マジョリティは善良であるはずだと思い込んでいたい欲望」

もちろん、これはある意味で、素朴な欲望だ。誰だって善良でないと思われるよりは善良だと言われたいし、そうありたい。差別主義者だなんて、まっぴらごめんというわけだ。差別主義者に憧れる人は多くはないだろう。だからこそ、突然「マジョリティの特権をしれっと使っていませんか?」と指摘されたときに、怒りをもって反応してしまうのだろう。
(上記引用)

そして、このマジョリティの特権的な立ち位置からたびたび発せられる「怒り」の根源にある「善良さ」を解剖する手つきこそが、本書の最大の魅力なのである。
特に、「善良」な人々の「逆差別」のロジックを「マジョリティ差別論」として整理した上で、具体的なケースから「傾いた公正さ」の問題として捉え返す、あざやかな議論の運びにすっかり魅了されてしまった。(引用同)

これもまた読み返さないとな。
otsukishoten.co.jp/book/b58588

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私(たち)に根深く突き刺さった「否認するレイシズム」について何度も点検が必要だし、声を掛け合って行きたいと思う。
その時々に起きる差別の現場において「批判をする者」と「批判をされる者」は、「差別をしない者」と「差別をする者」に固定されるものではない(になってはいけない)。自分もいつだってしうる事だからこそ、声を掛け合って共に学べるように、気付けるようにして行きたい。
gendai.media/articles/-/77893?

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