あった!
【ピープルのいないところにポピュリズムあり?——「健全な病理」としてのポピュリズム】
ポピュリズムは、このように理念上ではピープルに主権を与えるということ、実態上では支配や搾取・収奪にピープルがさらされているということの亀裂からあらわれてきます。少し逆説的な表現ですが、ある種の「健全な病理形態」なのです。
ホワイトハウスにポピュリストが君臨した現在の事態は、おそらく、デモクラシーを代表制というかたちで抑え込み、かつ資本制のもたらすヒエラルキーを中和させる、といった20世紀に主流であった社会の構成が根本的なデッドロックにつきあたったことの表現です。そして、この「病理」を、権威主義的ポピュリズムは、デモクラシーを抑え込むかたちで「解決」しようとします。それに対して、――人間が生き延びるべきであるとして――、唯一の見込みのある方向性は、ただひとつ、デモクラシーをもっと深化させる道のみである、とわたしは考えます。(引用)
2019年に書かれたもの。
この突き当たったデッドロックの回避が戦争になってしまったのだな。
http://www.ibunsha.co.jp/contents/sakaispecial01/
QT: https://fedibird.com/@satomuch/111544247805436747 [参照]
上記元エッセイを読んで、デッドロックにぶち当たったアメリカが取った道、と思うとなるほどな(納得している場合ではないが)。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231209/k10014283021000.html
となると、我々はどう進むべきか。この言葉を参考にしたい。
「結論の先取り的になりますが、わたしは、ポピュリズムはデモクラシーが過小なところには必ず生まれてくると考えています。これをデモクラシーの過剰とみなしてしまうところに、リベラリズムの限界があります。」
デモクラシーの過剰とみなしてしまうリベラリズムの限界。まさに。ということは、ここの限界突破しかない。