福岡市立総合図書館シネラでチェチリア・マンジーニ作品集を観た。「都会の名もなき者たち」ローマ郊外の10家族が雑魚寝するアパートの狭い一室から街の中で電車賃もない少年たちがたむろしゴミの山から拾い集め石灰を口に含んで吹き付けて遊びどこからともなくかけてきた群れに溶け込み丘を駆け下り川に飛び込む。「女に言い寄れば一人前の男になれたような気になるのだ」というナレーションのマチスモに対する眼差しと少年たちの尋常ではないエネルギーの躍動を映す眼差し。
「ステンダリ 鐘はまだ鳴っている」ブーリア州の葬式に集う女たちの様式化した嘆きのドキュメンタリーでスカーフを三角に折って両手に持ち棺を囲んで左右に揺らす身振りや踏み鳴らす足、女たちの顔のアップ、背景に止まる男たちの横顔、とダンスみたいにリズミカルに切り替わる。最後棺が男たちの手で家から運び出される時現れる司祭が首のとこでスパッと切られていて棺を囲む女たちとの対比ですごい画面になってた。
「マラーネの歌」あ、あ、あ、あ、と声を上げる少年の顔が顎から見上げるような角度でスクリーンの下から徐々に上にいく冒頭が無茶苦茶かっこいい。そして子供たちのスーパーノヴァみたいなエネルギーの爆発が凄まじい。しかし栄養失調寸前で空腹を小さな川魚やカエルで紛らわす状態でもある。
しかし犬を捕まえて川に沈めようとするわ蛇は振り回す泥の中で取っ組み合ったかと思えば頭を掴んで川に突っ込む。抜き差しならない出口のない貧困の中で生きていかざるを得ない彼らの状況をナレーターは語るけれど子供達の尋常ではない躍動に引っ張られるようにちょっと可笑しい。「無二の親友でいつもつるんでいるが些細なきっかけでつかみ合いの喧嘩をする。1人は泥棒に1人は警官になった。」
警官が来ると蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、逃げそびれた弟らしき小さな男の子を連れ帰りに戻ってきた少年はどれだけあんたらが水遊びを禁止しようが戻ってくるとふてぶてしく宣言する。日が沈んだ川辺で長い丸太に腰掛けてタバコを吸うシーンの静謐な美しさ。
「女性として生きること」労働者としての貢献を無視され続け、年がら年中子供を作らなければ神父に「神の恩寵を無駄にしないように」と諭され、出世の見込みのない単純労働に明け暮れ教育は受けられず、朝から晩まで働かなくてはいけない母親の代わりに上の娘が家事と兄弟の面倒を見ることになり11歳にして小学2年生の学力しか身につけられない。「女3代でようやく小学校2年生の学力に辿り着いたのだ」というナレーションが苦しい。
「女性として生きること」の中で女が担ってきた単純労働の一例としてタバコの葉を串に刺して干す仕事の様子が流れるんだけど、辛さを紛らわすための歌とタバコの葉に埋もれてうたた寝をする子供の姿によってタバコ小屋がどこか夢のような雰囲気になっていて面白かった。女たちの労働の象徴としての糸巻きから工場の巨大な織機の部品にオイルをさす姿に切り替えるだけで近代化が労働にもたらした決定的な変化と従属的な立場を強いられる女性の立場の変わらなさをみせていてすごかった。共働き夫妻の共闘子育てとか工場の塀に囲まれたことで男女に芽生えた労働者としての連帯意識という話の展開が出てくる点も良かった。
しかし政治は福祉の改善に興味がなく実質「何を諦めるかという選択肢」しか与えないという状態、今の日本だ。労働運動の制圧に銃で武装した警官がトラックで何十人も投入される様子はファシスト政権そのままだった。