で、これはそもそも、恋愛の話なんでしょうか?
「22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた」と始まるこの物語は、その最初の頁であらゆる比喩を使って、通り一遍の恋ではない、尋常ではない恋だ、と念押しをしています。
通常の恋の規範は、この物語の参考にはならないのです。
すみれは、ミュウを慕わしく思い、ミュウに性欲を抱いたことから、ミュウに恋をしたと判断したように思います。ここだけ見ると、通常の恋っぽいですね。
しかしわたしは、誰かに恋をしたこともなければ、誰かに性欲を抱いたこともないので、ここら辺のあれやこれやを咀嚼する物差しがない、まいった。
物語の最初のほうで、僕は、自己認識と客観的な実体には乖離がある、というようなことを述懐しています。
その僕にしろ、自分はモテないと言った口の乾かない端から、ガールフレンド達が途切れたことはない、みたいなことを言っていて、お前のモテの定義は何なんだよ、と聞きたくなりますね。
なので、この物語に登場する人物たちの自己認識は非常に疑わしい、と思うのです。冒頭の一文からして、信じて読むことができない。
失踪したすみれも書き置きの中で、「自分は考える人間である。考えるために文章を書く」みたいな感じで自己規定しているのですが、わたしがこの物語で出会ったすみれは、ミュウに逢った後の、ミュウに服と職と部屋を与えられ、考えること・書くことのできなくなったすみれなのです。
すみれは、夜明け前に僕に電話をして「記号と象徴の違いは何か?」と訊くような人間です。僕に対するすみれのこの無遠慮さは、ミュウと出逢う前からもののように思います。
少しでも考えたのであれば、「自分はこう思うが、あなたはどう思うか」というような聞き方になると思うのです。だけど、すみれはそうしない。ただただ僕に答えを求める。
「すみれは考える人間である」を真とするならば、僕はすみれの外部に拡張された自己、ということになるのです。