村上春樹『スプートニクの恋人』読了。
作品とわたしとにあんまりにも共通項が無さ過ぎて、作品を掴めた(読めた)感がないです。
んで、これ、解釈すればするだけつまんなくなる気がする(わたしが解釈すれば、の話)。

「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」とか刺してくる感じ(太字ゴシック体だしな)の箴言めいた言葉はいいなと思わんこともないのですが、それがわたしの中で有機的に物語と結びついてくれなくて、言葉だけ浮いてる感じがする。
「誤解の総体」の物語である、と信じることにしました。

語り手(後半の主人公)の僕と、(前半の)主人公のすみれと、すみれの片思いの相手のミュウの、3人が主要人物。
僕が片恋をしている友人のすみれが、ミュウに恋して失恋して失踪する話、ということになります。
友情と恋と性欲と、この3つの感情の縺れを書いたもの、ではあるということになるのでしょうか。

で、これはそもそも、恋愛の話なんでしょうか?
「22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた」と始まるこの物語は、その最初の頁であらゆる比喩を使って、通り一遍の恋ではない、尋常ではない恋だ、と念押しをしています。
通常の恋の規範は、この物語の参考にはならないのです。

すみれは、ミュウを慕わしく思い、ミュウに性欲を抱いたことから、ミュウに恋をしたと判断したように思います。ここだけ見ると、通常の恋っぽいですね。
しかしわたしは、誰かに恋をしたこともなければ、誰かに性欲を抱いたこともないので、ここら辺のあれやこれやを咀嚼する物差しがない、まいった。

物語の最初のほうで、僕は、自己認識と客観的な実体には乖離がある、というようなことを述懐しています。
その僕にしろ、自分はモテないと言った口の乾かない端から、ガールフレンド達が途切れたことはない、みたいなことを言っていて、お前のモテの定義は何なんだよ、と聞きたくなりますね。

なので、この物語に登場する人物たちの自己認識は非常に疑わしい、と思うのです。冒頭の一文からして、信じて読むことができない。

失踪したすみれも書き置きの中で、「自分は考える人間である。考えるために文章を書く」みたいな感じで自己規定しているのですが、わたしがこの物語で出会ったすみれは、ミュウに逢った後の、ミュウに服と職と部屋を与えられ、考えること・書くことのできなくなったすみれなのです。

すみれは、夜明け前に僕に電話をして「記号と象徴の違いは何か?」と訊くような人間です。僕に対するすみれのこの無遠慮さは、ミュウと出逢う前からもののように思います。

少しでも考えたのであれば、「自分はこう思うが、あなたはどう思うか」というような聞き方になると思うのです。だけど、すみれはそうしない。ただただ僕に答えを求める。
「すみれは考える人間である」を真とするならば、僕はすみれの外部に拡張された自己、ということになるのです。

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自己の延長であるからすみれは僕に恋をしないし、自己の延長であるから僕はすみれに恋をする、ということになるのでしょうか。

『スプートニク(付随するもの、旅の連れ)』という名前を冠しながら、この物語で繰り返し描かれるのは、一瞬触れ合い、あとは延々と宇宙をすれ違う孤独な衛星のイメージです。
そのイメージは、美しくて寂しい、とは思う。

感想らしい感想が抱けなくて、とっ散らかってるけど、まあだいたい思ったことはこんな感じです。

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