村上春樹『スプートニクの恋人』読了。
作品とわたしとにあんまりにも共通項が無さ過ぎて、作品を掴めた(読めた)感がないです。
んで、これ、解釈すればするだけつまんなくなる気がする(わたしが解釈すれば、の話)。
「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」とか刺してくる感じ(太字ゴシック体だしな)の箴言めいた言葉はいいなと思わんこともないのですが、それがわたしの中で有機的に物語と結びついてくれなくて、言葉だけ浮いてる感じがする。
「誤解の総体」の物語である、と信じることにしました。
語り手(後半の主人公)の僕と、(前半の)主人公のすみれと、すみれの片思いの相手のミュウの、3人が主要人物。
僕が片恋をしている友人のすみれが、ミュウに恋して失恋して失踪する話、ということになります。
友情と恋と性欲と、この3つの感情の縺れを書いたもの、ではあるということになるのでしょうか。
自己の延長であるからすみれは僕に恋をしないし、自己の延長であるから僕はすみれに恋をする、ということになるのでしょうか。
『スプートニク(付随するもの、旅の連れ)』という名前を冠しながら、この物語で繰り返し描かれるのは、一瞬触れ合い、あとは延々と宇宙をすれ違う孤独な衛星のイメージです。
そのイメージは、美しくて寂しい、とは思う。
感想らしい感想が抱けなくて、とっ散らかってるけど、まあだいたい思ったことはこんな感じです。