だからって差別を見逃していいかという事にはならなくて、日常レベルで「それはあかん」と都度言っていくしかないのだけれど、これは被差別側の問題じゃなく差別している/できる側の問題で、○○より優れていると思っている自分で安定している無意識の優越感が根底にあるから厄介
無意識だから指摘すると大抵ぽかんとなってるし、改めない
逆に言えば、多くの人にとって、この差別は口に出しても何となく社会では一般に受け入れられている、という雰囲気で差別しているわけで、それはカッコ悪いみっともない事だとなったら、少なくとも口に出すことはなくなるだろうと思っている
ただ、制度に残る差別については粘り強くおかしいと言い続けないとダメだよね
差別は被差別側じゃなくて、差別を内包している社会の恩恵を受けている側の問題だから、おかしいと思ったら改められるまで言い続けなければ
社会のどこかに自分たちの平穏を脅かすものがいるという不安を抱えて生きていて、無意識でも自分は「安全なマジョリティ」側にいたいと思っているならば、必ず敵視/差別する対象を見つけるんだろうと思っている
そうした人々にとっては「」つきのマジョリティである自分の行動半径内に、自分が差別してきた属性の人たちが現れた際にはじめて差別者としての自分をつきつけられるのであって、それまでは共生することを考える事すらしないし想像も及ばない
たとえば「非正規雇用」など自分が含まれる属性が差別されたときは憤れるけれども、他の差別問題には関心がないから平気で差別的な言葉を言えてしまう
「分断を生む」とそれが問題かのように為政者側がしれっというけれども、我々下々はすでに為政者にとって都合のいいように分断されている
分断を生むと言いながら、連帯されることを為政者は嫌っていると思うんですよ
こちらから進んで見ようとしなければ隣人の顔も見えないし、その苦痛を知ることも補う事も出来ない、見ようとすることについてすら物言いがつく世界に私たちは生きている
世代ひとつとっても、スライスされているというか、社会の見え方、社会に対する構えがだいぶ違っていて、違いを認めながら相互に理解しあう事も難しかったりする
SNSがそれを埋めれるか、という事に私は関心があって、そういう関係の本を読んでみようかと思っています