だからって差別を見逃していいかという事にはならなくて、日常レベルで「それはあかん」と都度言っていくしかないのだけれど、これは被差別側の問題じゃなく差別している/できる側の問題で、○○より優れていると思っている自分で安定している無意識の優越感が根底にあるから厄介
無意識だから指摘すると大抵ぽかんとなってるし、改めない
逆に言えば、多くの人にとって、この差別は口に出しても何となく社会では一般に受け入れられている、という雰囲気で差別しているわけで、それはカッコ悪いみっともない事だとなったら、少なくとも口に出すことはなくなるだろうと思っている
ただ、制度に残る差別については粘り強くおかしいと言い続けないとダメだよね
差別は被差別側じゃなくて、差別を内包している社会の恩恵を受けている側の問題だから、おかしいと思ったら改められるまで言い続けなければ
「分断を生む」とそれが問題かのように為政者側がしれっというけれども、我々下々はすでに為政者にとって都合のいいように分断されている
分断を生むと言いながら、連帯されることを為政者は嫌っていると思うんですよ
こちらから進んで見ようとしなければ隣人の顔も見えないし、その苦痛を知ることも補う事も出来ない、見ようとすることについてすら物言いがつく世界に私たちは生きている
世代ひとつとっても、スライスされているというか、社会の見え方、社会に対する構えがだいぶ違っていて、違いを認めながら相互に理解しあう事も難しかったりする
SNSがそれを埋めれるか、という事に私は関心があって、そういう関係の本を読んでみようかと思っています
で、西田発言ですが
まず西田昌司政調会長代理がいう「社会」は我々がイメージしている「社会」と同一だろうか
という疑問があります
彼の言っている「社会」は彼らが含まれる為政者側の「社会」の事を言っているのではないか
おそらくですが、上流の人たちの中にも性的少数者は含まれているので、そのなかで差別禁止の気運が高まれば下々とも連帯するだろう事への懸念を示している。。。と私は読んだ