今は地方でもコンビニの店員さんは外国の方がやってたりするのだろうか。東京では海外から来た方や日本で育った海外ルーツの方と接することなく1日過ごすことはまず無い。
ただ排外主義者にとってはそういう人たちが身近にいようがいまいが関係ないのだろうと思う。排外主義者は単に外国人を嫌ってるだけではなく異なる文化的なバックグラウンドの全てを嫌っている。表面的には“彼ら”に問題があるという形をとっているが排外主義者が本質的に嫌っているのは変化だ。
文化的なバックグラウンドというのはつまり他人も自分と同じ苦労をするべきだと言い換えられると思う。彼らが嫌うのは単に言葉や宗教やしきたりや礼儀作法が違う者たちではなく、海外からの人を受け入れることで起こる日本人の中での序列の変化、つまり文化的なバックグラウンドの多様化そのものだ。
例えばこれまで社会構造として日本人の若い人たちが通って来たアルバイトやその他下積みの仕事を海外からの人が行い、若者が別のルートで社会に出ようとすることが気に入らない。 (1/2)
海外からの人たちが介護を担って老人の世話から解放される人がいることも気に入らないし、保育を担って子育ての負担が軽減されることも気に入らないし、福祉に携わって障害者の助けになることも許せない。解放された人たちが自分とは別のやり方で社会参加してしまうからだ。
同時に海外からの人たちが自分たちと同じ苦労を経験して社会的な地歩を固めた場合、その人たちは本来であれば彼らと同じ地位を得ることになる。そうなればいよいよ別の文化、別の価値観がこの社会で発言権を得ることになる。当然排外主義者は気に入らないだろう。だからあらかじめ海外からの人たちの人権を制限しようと考える。
排外主義は外部からくる文化の多様性と日本人の中に発生する多様性という2つの多様性に対する嫌悪から成り立っている。 (2/2)