#すずめの戸締まり を観た。なんだか、『君の名は』でやり残したことをしようとしたのかなと見終わった時に思った。『君の名は』は災害には向き合っても、死者や取り残された人々に向き合うことはできなかった。それを今回は真正面から取り上げようとしたのだろう。
以下ネタバレを含みます。
『君の名は』が「願い」、『天気の子』が「犠牲」だとすれば、『すずめの戸締まり』は「祈り」の映画だと思う。祈りは物理的に何かを動かさないが、内面を伝って静かに人々を動かす。祈りはなぜ重要か、それを忘れた時に何が起こるかを描くことを重視していて、物語の整合性をあまり取ろうとはしてないのだろうなと思った。
以下『 #すずめの戸締まり 』のネタバレを含みます。
災害と祈りについての考えとは別に、ダイジンのことが個人的には気になっていて色々考えてしまった。ダイジンも要石になる前は猫ではなく人間の姿をしていたのだろう。もう一つの要石とくらべて姿が小さく言動が幼いこと、「ダイジンはすずめの子になれなかった」という発言を総合すると、おそらく何らかの災害で親を亡くし、何らかの事情で要石に捧げられてしまった子どもだったのではないだろうか。だからこそ、すずめの「うちの子になる?」という発言にあれほど喜び、すずめに固執していたのだろう。ダイジンにとって人間たちは自分を犠牲にして生きながらえようとする存在であり、怨みを抱いている。すずめもまた、被災して親を亡くした子どもであり、環に「うちの子になろう」と言われたことを考えると、同じ境遇の人間だとシンパシーを感じたのかもしれない。だがクライマックスで、すずめが草太を救うために自ら犠牲になろうとした様子を見て、自分とは違う人間なのだと思ったので、また要石に戻ることにしたのではないか。などなど、いろいろ想像が膨らんでしまった。できればもっと掘り下げてほしかったキャラクターであった。
以下『すずめの戸締まり』のネタバレを含みます。
祈るという行為は、簡単なようでいて実は難しい。何かを願えばそれは祈りか、何かを差し出せば祈りは成立するか。自分とは異質な存在とつながるために何をしなければならないのか。すずめは扉を閉める時、そこにいた人々の声を聴くことで扉を閉めることができた。すずめの「聴く」という行為こそ、祈りの本質であるということを表現しようとしているとではないか。