を観た。なんだか、『君の名は』でやり残したことをしようとしたのかなと見終わった時に思った。『君の名は』は災害には向き合っても、死者や取り残された人々に向き合うことはできなかった。それを今回は真正面から取り上げようとしたのだろう。

以下ネタバレを含みます。 

物語としては正直なところ、『君の名は』『天気の子』と比べると見劣りはした。序盤にすずめが廃墟の扉を開けてしまうところまでの展開は無理やりに感じた。最後まで観ると、すずめが初対面の草太に惹かれ、廃墟までついてきたのは必然だったことは分かるのだけど。また、基本的には扉を閉めて鍵をかけるというアクションの連続であり、結果的に現実社会では何も起こらないので単調になってしまっているきらいがある(『天気の子』では東京をまるごと沈めたというのに)。また、「災厄を回避するために誰かが犠牲になることを許容するかどうか」という、『天気の子』で描いたテーマが今回はいやに軽く扱われたようにも思えた。物語の鍵を握るダイジンについても、もう少し深く掘り下げないと分かりづらいのではないだろうか。などなど、挙げようと思えばこの映画の不満に感じたポイントは山ほどある。ただ、そういうこちらが物足りなかったり、不満に感じたポイントは制作人にとってあまり重要視していないのだろうなと観ていて感じた。

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『君の名は』が「願い」、『天気の子』が「犠牲」だとすれば、『すずめの戸締まり』は「祈り」の映画だと思う。祈りは物理的に何かを動かさないが、内面を伝って静かに人々を動かす。祈りはなぜ重要か、それを忘れた時に何が起こるかを描くことを重視していて、物語の整合性をあまり取ろうとはしてないのだろうなと思った。

以下『すずめの戸締まり』のネタバレを含みます。 

祈るという行為は、簡単なようでいて実は難しい。何かを願えばそれは祈りか、何かを差し出せば祈りは成立するか。自分とは異質な存在とつながるために何をしなければならないのか。すずめは扉を閉める時、そこにいた人々の声を聴くことで扉を閉めることができた。すずめの「聴く」という行為こそ、祈りの本質であるということを表現しようとしているとではないか。

以下『すずめの戸締まり』のネタバレを含みます。 

災害について考えるとき、直接的な被害状況に目を奪われがちではあるけれど、目に見えないものを考えることも大事だ。災害をもう起こさせたくないという思いを形作るには災害で失われたものを想像させることが必要。本作が祈りにフォーカスをあてたのは、災害を取り扱う時に取り落としてはならないものを拾い上げようとしたのかなと思った。

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以下『 #すずめの戸締まり 』のネタバレを含みます。 

災害と祈りについての考えとは別に、ダイジンのことが個人的には気になっていて色々考えてしまった。ダイジンも要石になる前は猫ではなく人間の姿をしていたのだろう。もう一つの要石とくらべて姿が小さく言動が幼いこと、「ダイジンはすずめの子になれなかった」という発言を総合すると、おそらく何らかの災害で親を亡くし、何らかの事情で要石に捧げられてしまった子どもだったのではないだろうか。だからこそ、すずめの「うちの子になる?」という発言にあれほど喜び、すずめに固執していたのだろう。ダイジンにとって人間たちは自分を犠牲にして生きながらえようとする存在であり、怨みを抱いている。すずめもまた、被災して親を亡くした子どもであり、環に「うちの子になろう」と言われたことを考えると、同じ境遇の人間だとシンパシーを感じたのかもしれない。だがクライマックスで、すずめが草太を救うために自ら犠牲になろうとした様子を見て、自分とは違う人間なのだと思ったので、また要石に戻ることにしたのではないか。などなど、いろいろ想像が膨らんでしまった。できればもっと掘り下げてほしかったキャラクターであった。

などなど、他の人のレビューを読んで感化される前に一切の情報やレビューを仕入れずに感じたことを書いてみた。さて、レビューを読みあさってみよう。

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