引き続き「中国彷徨」から。
《午後、ラ・フルシュに腰を下ろして、私は静かに自問する、「ここからどこへ行こうか」と。日が暮れる前に、私は月まで行って帰ってきてるかもしれない。ここ、分岐点にすわって、私のすべての自我、どれも不滅であるそれらを私は思い返す。私はビールを飲みながら涙を流す。夜、クリシーに歩いてもどって行くときも気分は同じだ。ラ・フルシュに来るたびに、私の足元から果てのない道が放射状に広がり、私という存在に住みついた無数の自我が歩き出すのが見える。私はそれらの自我と腕を組み合い、かつては私が独りで歩いた道、すなわち生と死の強迫観念に憑かれた道をともに歩く。私はこれら自分が作り出した仲間たちと多くを話す。かりに私が、不運にも一度しか生と死を経験できず、永遠に孤独になってしまったとしたら、自分自身に語りかけることになるだろうほどにである。今、私は決して独りではない。 最悪の場合でも、私は神とともにいる! 》
私は独りではない、今は。
私には無数の自我がある。私が何度も死に、何度も生まれてきたからである。
私はそれらの自我と手を組み合って、かつては独りで恐れつつ歩いた道を、言葉をかわしながら行く。
無数の自我とあるのが、エイメの「サビーヌたち」を思わせる。
サビーヌの場合
サビーヌはマルセル・エイメ「サビーヌたち」(短編集『壁抜け男』所収)の主人公。
彼女の夫は、彼女が食堂の肘掛け椅子でくつろぎ、微笑を浮かべている姿を見るのが好きだった。だがそんなとき、抱きしめてやろうと彼女に近づいたりすると、彼女はいらだたしげに身を離してしまうのだった。
じつはサビーヌには同時存在の能力があり、自分とそっくりの分身を幾人でもつくることができた。彼女が自宅の椅子で幸せそうな笑みを浮かべているとき、彼女の分身は画家志望の若者のアトリエで甘い言葉をささやかれている最中だったり、あるいは別の分身がカサブランカのホテルで美男の憲兵隊長と食事をしているところだったりする。
サビーヌの分身たちは、サビーヌ本人と同じように自分の分身をつくることができ、恋や浮気や結婚、あるいは他の事情でさかんに分身をつくるものもあり、分身の数は急速に増えていった。
なかでもサビーヌの直接の分身で、スペインの探検家と結婚したロザリーは、宗教的な問題でパプアの原住民に夫を食われてしまうと、世界中で愛人をつくりはじめた。船乗り数名、農園主数名、海賊数名、役人数名、カウボーイ数名、チェスのチャンピオン1名、そのほか運動選手から医師、弁護士まで、若くは高校生まで含めて愛人のリストは広がり、ロザリーにはじまる分身は3カ月で990人に達し、さらに6カ月後には1万8千に達した。
分身の総数が6万7千に達した時点で破綻が訪れる。
サビーヌは自分の浮気のためにつくった分身ルイーズ・メニャンに、夫を裏切った責を負わせ(たしかに浮気の当事者はサビーヌではなく、ルイーズなのだが)、貧民街の掘立小屋に追放する。
ゴリラにたとえられる毛むくじゃらの大男が掘立小屋に押し入ってルイーズを犯す。この出来事は、他のサビーヌの分身たちをも打ちのめした。分身たちは身体こそ別々だったが、心はたがいにつながっていたので。
大男は毎週小屋をおとずれて、そのたびに2日間にわたってルイーズを犯す。そのなかで、物語をしめくくるにふさわしい、ある和解がおとずれようとするが、ルイーズがゴリラ男に絞め殺されてその機会は失われる。
作者による結語
《ルイーズ・メニャンが首を絞められて死んだ瞬間、六万七千余の姉妹たちも首に手をあてながら、幸福そうな微笑をうかべて最後の息をひきとった。そのうちのある者たち――バーベリ夫人やスミスソン夫人のような――は、ぜいたくな墓場に眠り、他の者たちは時間がたてばすぐに消えてしまいそうな、ただ土を盛りあげただけの簡単な墓の下に眠っている。サビーヌはモンマルトルのサン・ヴァン街の小さな墓地に埋葬され、彼女の友だちが時々墓参りにやってきた。人々は思うだろう――彼女はいま天国にいるのだと、そして最後の審判の日に、彼女と六万七千の姉妹たちは生き蘇るだろうと……。》――中村真一郎訳「サビーヌたち」
サビーヌの分身たちが幸福に死んだらしく書かれている。作者の皮肉なのか。それとも、彼女らの幸運を信じて書いたのか。
謎めいた締めくくりだが、これについてはミラーの『暗い春』と対照させて考える。
私はビールを飲みながら涙を流す。
解放感で泣いている。
つらくて泣いているのではない。