Webアクセシビリティーは、それなりに興味を持って、あるいは必要に迫られて取り組む人が増えた印象だけど、障害当事者からは離れて行っている感じが最近よくする。
当事者も「よく分かってる人がやってれば大丈夫でしょ」的な受動的な姿勢でいたのではダメだということなんだろう。
僕たち当事者は、今こそ "nothing about us, without us" という言葉を意識してことあるごとに言っていく必要があるし、取り組みを進める人たちも意識するように仕向けていかないといけないんだろうと思う。

アクセシビリティーの技術的部分というのは、その根本にある考え方を身につけた上で、アクセシビリティーに関係ないものも含めて新しい技術を正しく理解する姿勢があれば概ね何とかなるものだと思う。
ただ、その根本の考え方みたいなものを本当に身につけている人がそんなに増えていなくて、結果としてアクセシビリティーの取り組みが障害当事者から離れて行っている感じがするような気がしてならない。
これは「アクセシビリティーは必ずしも障害者だけのためのものではない」みたいなことを言って裾野を広げようとしてきた僕たちにも責任があるのかもしれない。もちろん正しいことを言ってるのだけど、でも障害者のアクセスが改善できることは大前提で、そこをすっ飛ばしてしまったらほとんど意味はないということが伝わっていないのかもしれない。
技術論はそれはそれで大事だけど、「障害の有無に関係なく、情報には誰でも同様にアクセスできる必要がある、それは現代の社会における基本的人権である」ということが共有できていることがまずもって大事だと思う。

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僕は今も障害者運動に類するものとはそれほど近い位置にいないのだけど、若い頃はもっと意識的に距離を置いていた、というか避けていた。それは、今思えば自分はそういうことしなくても社会の中でやっていけてるし、みたいな思い上がりがあったからなのだろうと思うけど、ともあれそんなだったから、アクセシビリティーが障害者が何かを求めている、というような見られ方をされないようにということをすごく意識してた。それもあって、「アクセシビリティーは決して障害者だけのためのものではない」ということを、必要以上に強調してしまったのだろう。
でも、結局30年近くこの分野でやってきて、そもそもその姿勢が良くなかったんだなあと反省してる。
技術論はちゃんと発信さえすれば、必要性を感じている人には届くけど、考え方はそう簡単には浸透しない。だから先人も、そして今活動している当事者も苦労し、いまだに運動を続けなければならないのだろう。
アクセシビリティーに真剣に取り組むということは、それは社会運動、人権運動に取り組むということなのだということを、ここ数年ずっと考えてきたけど、先日の名古屋のイベントの様子を見てそれが確信に変わった感じがする。

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