主人公が紙の本擁護派ともいえるような人たちの主張について批判してるところがあって、これには結構共感した。
ただ、その一方で、紙派の人たちが言うことに対して、物わかりが良い振りをして理解どころか共感を示すようなことを僕は結構やってきたなあなどと思ったりもした。僕の立場としては、紙派の人たちがなにを言おうと、否紙媒体の利点を認めて紙同様にアクセスできるものにすることを、少なくとも邪魔立てしなければなんでもいいや、という感じなので、理解を示すことはともかくとして、共感まで示さなくて良かったんじゃないのかななどと急に思った。
こんなことを考えたのは、たまたま昨日呼ばれて参加した視覚障害教育に関する会で、子供の頃は見える子と同じことをしたがるものだけど、本来同じ結果を得られることが重要なのに同じ手段を取ることの方が重要になっちゃうんだよね、そしてそれが重要じゃないってことは結構大人になるまで意外に気づかないよね、なんていう話になったから。
紙の本を読むという、僕には使えない手段に共感を示すことで、僕も使えているような錯覚を得たかったのかもしれないとふと思い当たってしまって、なんか暗い気持ちになってしまった。
同じ目的を達成するためには複数の手段がある場合も少なくないし、どの手段が最適化は人によって異なっているかもしれないし、もしかするとその瞬間「目的」だと考えているものは、もう少し先にある本当の目的を達成するための「手段」かもしれない、そんなことになにかのきっかけで気づけるかどうかで随分といろいろな物事に対する向き合い方が変わってくると思う。
僕の場合は、そこに気づいたのもそれなりに大人になってからだった気がするし、気づいてから積極的にそう割り切って考える癖がついたのはもっと後のことだったと思う。正直今でも割り切り切れてないところもあると思う。
マジョリティーが採用している手段は、マジョリティーにとっての現状での最適解である可能性は高いのだろうけど、その想定されたマジョリティーというのがどれだけ自分から距離があるものなのかは、障害の有無に関係なく、もっと意識すると良いのかもなと思う。
で話は変わってその「子供の頃は見えてる子と同じことをしたがる」という件。
これ、あとから考えると、特定の目的を達成するための手段は、マジョリティーがやってる手段が唯一のものだと子供の頃は考えがちで、その手段を行使することから排除されてしまったら、その目的は達成できないと信じて疑わないような感じだからなんだろうなと思う。
手段と目的という観点からはそうなんだけど、それとは別に、見えてなくても見えてる子と同じことをすることで、自分の異質性を否定したいという強い欲求もあるのだと思う、というかおそらくはこっちがメインのものなのだと思う。
ではなぜ異質性を否定したいのかと考えると、それはその時点で、自分が暮らす社会が異質な者に対して寛容ではないということを知ってしまっているからなのではないかという気がする。
そしてその感覚は成長するにつれて確信に変わり、自分が持つ異質性をいかに排除するか、どうやって健常者と同じように振る舞うかという、今思えば本当に無駄なことに散々努力して挫折して、ということを繰り返すことになってしまうのだろうと思う。