『「社会正義」はいつも正しい』を読んだので、素人ながら少し感想。この本では、現在の「社会正義」を求める「理論」の淵源を、著者達が「ポストモダニズム」と呼ぶフーコーやデリダらのフランス現代思想に求めていて、そこから「ポストコロニアル理論」
クィア理論」「批判的人種理論」「ジェンダースタディーズ」「障害学」などの「応用ポストモダニズム」(と著者達は呼ぶ)が生まれ、今やそれらが「社会正義」を盾に暴走しているというのが大雑把な流れ。
それぞれに章立てされて論じられていくのだが、理論の把握については相当雑な捉え方がされていると思えた。昔、日本でも言われたポストモダンを「価値相対主義」の一語で冷笑するような感じ。
著者達(そして訳者解説でも)がそうした批判の根拠にするのが「リベラリズム」と「啓蒙主義」で、それさえあれば、過激な応用ポストモダニズムは、不要だと言わんばかりなのだが、これはかなりの楽観と歴史修正的な見方で、リベラリズムと啓蒙主義だけでは、凝りかたまった、植民地主義的性差的人種的健常者的偏見が解きほぐせないからこそ生まれてきたものだろうと思う。
実は著者達もそれは分かっていて、「応用ポストモダニズム」の理論には全て一理ある、あるいは3割正しいとか書いているw
@kova41
バックラッシュの一形態に過ぎない、というのは慧眼だと思いました。とても参考になりました。ありがとうございます。
@gizmothemogwai こちらこそ読んでいただき、ありがとうございます!
著者達が本当にリベラリズムと啓蒙主義でいけるというなら、本気でそれをやってくれよ。というのが率直なところで、早川書房の訳者解説サイト掲載取り下げ以降に紹介された著者達の、その後の展開など見ても、リベラリズムと啓蒙主義なんて批判のために持ち出された為にする理屈以外ではない、バックラッシュの一形態に過ぎなかったんじゃないかと正直思う。
日本のポストモダンは、フランス現代思想家たちの主著群がまだ大して訳されてもいなかった1985年に出た柄谷行人の『批評とポスト・モダン』以来、常に近代(モダン)を批判しつつ、近代を徹底せよって姿勢だったと受け止めてきたので、自分は「リベラリズム」と「啓蒙主義」がポストモダンと対立するなんて考えたこともない。モダンをもってして克服できないできたことをモダン(普遍的なリベラリズムと啓蒙)によって克服していこうというのが、ポストモダンだと考えているから。
それにしてもバックラッシュは、色んな形で登場しますね。まあ、いつもどうしても読み通せないヒースの本に比べたら、読み通せただけましだったかw
これを読むなら、既に出てる『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』とか、これから出る『今を生きる思想 ミシェル・フーコー 権力の言いなりにならない生き方 』を読んだ方がいいというのが結論w