当時は昭和製鋼所の生産が最盛期、一方で地元の満州人労働者が過酷な環境下で働いている実態があった。祖父も若手社員でそんな地元労働者を間近に見て、ある時上司へ「せめてもう少し満足の行く食事を与えてやって欲しい」と直訴しに行ったことがあったのだそうだ。
祖父が上司達に相談へ行った時、彼らは現場で働く自分達よりも遥かに豪勢な食事を頬張りながらガハガハ笑っていたそうで、同僚に「上の人間がこんな体たらくなら、いずれ日本は戦争に負ける」といったことを度々口にしては冷や汗をかかせていたという。
それから祖父は自分の給料から自腹で食料品を買っては満州人労働者に分け与えていたそうで、祖母が言っていたのは「給料は良かったけれど、それらの食費で消えて決して裕福には暮らせなかった。長男を身籠るまでは私も食料調達を手伝わされていた」のだとか。
そんな祖父母は終戦前後の満州をどう生き延びたのだろうか、母に聞いたらまた意外な答えが返ってきた。「それがね、終戦の数ヶ月前に突然会社を辞めて、満州から日本に帰って来たみたいなのよ」(2/3)
祖母が記憶していたのは終戦数ヶ月前、いつもより早い時間に祖父が帰宅したかと思いきや開口一番「会社は辞めた、日本へ帰ろう」と言い出したという。
長男が生まれたばかりで何を言っているんだと思ったそうだが、祖母は「この人は昔から頭がいい。きっと何かを察して帰ったほうがが息子のためにもなるのだろう」と思い、大人しく従ったのだそうだ。
そして帰国をしてからあっという間に終戦。親戚や知人はこの祖父の行動に虫の知らせだのと褒めそやしたそうだが、祖母は一貫して「あの人はね、分かっていたんだと思うよ」と話していたという。
終戦後、祖父は満州時代の経験を一切捨て地元の数学教師の道を歩んだ。祖母曰く「平和になっても腐った上司は居るだろうから」企業で働きたくはなかったらしい。
真面目だったという祖父が話したがらなかった、昭和製鋼所の記憶の一端を垣間見た話。(3/3)